【夏目】厄介な恋人
確述出来ないのは、本人から聞いたわけではないからだ。彼の忠実で聡い式である柊が、昨晩夏目に伝えに来たのである。
「主様が風邪を召された。ここのところ多忙でな。流石に限界だったらしい」
彼女が突然現れてこう言ったときには、それは驚いたものだ。俳優業と妖祓いを兼業しているくらいだから、彼にはそれなりに体力があるのだと夏目は思っていた。というか、実際そうだ。
だが、名取はどうにも自身の身体にあまり頓着していなさそうでもある。だからこそ、体調を崩したのだろう。
だとしたら、放っておくのはまずいかもしれない。夏目はそう結論づけた。
「分かった。明日の放課後にお見舞いに行くよ」
「すまない、そうしてくれ。きっとあの人は、お前に会いたがっているから。ああ見えて寂しがりだからな」
そう揶揄して言う声はしかし、穏やかだ。面で隠された瞳は、優しい色をしていただろう。
そして今、夏目は北本と西村の誘いを丁重に辞退し、名取の住むマンションを訪れていた。
名取は至って平然を装っているが、その顔は熱で僅かに火照っており、けだるさも垣間見える。
「夏目。飲み物、何がいいかな」
「あ、いえ、御構い無く…病人なんですから、寝ていて下さい」
「でも、折角来てくれたのに、悪いし…」
全く、この人は自分が何をしに来たのか分かっていないのだろうか。夏目は思わず呆れてしまった。
「おれはお見舞いに来たんです。持て成す必要なんかないですから…ほら、横になっていて下さい」
ため息をひとつついて、名取の背を押し、寝室へと向かわせる。渋々、といった様子で横になった彼の額に触れて、吃驚した。
「まだ結構あるじゃないですか!もう…ご飯は何か食べましたか?」
「いや、今日は、まだ…」
「じゃあおれ、雑炊作ってきます。薬はどこにありますか?」
名取は、夏目が雑炊を作ると言ったら目を輝かせたが、薬の在処を訊ねると、すぐに表情を曇らせた。
まさか、この人。
「…薬は、嫌いなんだ」
「子どもですかあんたは…」
「だって、粉薬は苦いし噎せるだろう?錠剤も、詰まりそうで…」
だから薬はないのだと言う。
薬が苦手だなんて、可愛いところもあるものだと思ったけれど、それで済ますわけにもいかない。
夏目は心を鬼にする。
「薬も食事も摂らないで、治るわけないでしょう…。大人なんだから、我慢して下さい」
「シロップ薬ならあるぞ、夏目」
背後から聞こえた声の主は、やはり柊と、その傍らに瓜姫が薬が入っているであろう袋を携えていた。
「それは変な甘さが…」
「我儘言わないで下さい。」
それでもなお名取がごねるので、直ぐ様一蹴してやると、流石に黙り込んだ。
…と思いきや、「お前たちが言わなければ飲まずに済んだのに」とか、「苦いのに甘いなんて気持ち悪い」とかまだぶつぶつ言っていた。
(本当に、困ったひと。)
「ほら、出来ましたよ名取さん」
教えてもらったレシピを頼りに何とか完成した雑炊は、我ながら大した出来栄えだと思えて、名取がどんな顔をして食べるのか、夏目は少し楽しみだった。
「ありがとう、夏目。君の手料理が食べられるだなんて嬉しいよ」
何が嬉しいのか夏目には分からないが、何だかとても喜んでくれているようなので良しとし、ベッド脇の小机に盆を置いて自分も脇に腰かける。
「食べさせてあげますから体起こして下さい」
「……え?」
「だから、体を起こして…」
「食べさせて、くれるのかい?」
目を丸くして不思議そうに訊くから、逆にこちらが不思議に思ってしまう。どうしてそんなに驚いているのだろう。
「はい、口開けて」
「…えっと、自分で食べられる、よ?」
息を吹きかけてよく冷ましてやった一口分を、ずいっと前に差し出すと、彼は何故か狼狽えた。
だが、またも夏目は名取のささやかな抗議を一刀両断した。
「病人は大人しく世話焼かれて下さい」
「……はい…」
はじめこそ、照れ臭げにしていた名取であるが、一口咀嚼して頬を綻ばせる。
「すごく美味しいよ。夏目は料理が上手いんだね」
「いえ、これは…塔子さんに教えてもらった通りに作っただけです」
「でも、その通りに出来るってことはやっぱり上手いんだよ」
褒められるのは慣れていなくて、どうすればいいのか分からない。とりあえず、全部食べさせることにだけに集中した。
名取は終始機嫌よさげで、夏目も自然と頬がゆるむ。
「ご馳走さま。ありがとう、本当に美味しかった」
「喜んでもらえて良かったです」
内心、口に合わなかったらどうしようかと思っていた。だが、美味しそうに食べてもらえて、こちらまで嬉しくなる。
「じゃ、薬飲んで下さいね」
「…やっぱり飲まなきゃだめかい」
「ダメです」
うー、とか、えー、とか、文句を言っているがそれを無視して、強引に手渡すそれ。
茶色のシロップは、確かに苦味もあるが子供向けなのだ、これさえも飲めないと言うなら彼はどうするつもりなのか。
「…やっぱり、嫌だ…」
ほんの少し口に含んで、しかしすぐに弱音を吐く。
「俳優・名取周一ともあろう人が薬も飲めなくてどうしますか。格好がつきませんよ」
「でも…」
「ああもう、仕方ないですね」
いつまでもうだうだとしてもらっては困る。さっさと飲んでさっさと休むのがいいに決まっているのに。
どうやら自分は、この人に関してだけは短気なようだ。じゃあいいです、と言って彼の手からそれを奪い、自ら口に含む。
「夏目、何を…っんん!?」
ぐっと、半ば強制的に唇を彼のそれに押し付けた。半端に開いた口に、自分の口内のものを流し込む。ごく、とそれを飲み込む音を確かめてから、唇を離した。
「は…、ほんとに世話が焼けますね、貴方は」
そう夏目が言うが、茫然とした名取はそれも聞こえていないようだ。そんな反応をされては、他意はなかったはずなのに恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。
男が二人して顔を赤くして、何をしているんだ。
「なつめ、」
まだ些かぼんやりとした声で呼びかけられる。気まずいので目を合わせたくなかったが、その声音がそれを許さない。
「なつめ。こっち向いて?」
「…何ですか」
仕方なく見てやると、彼は美しく微笑む。
「薬、あまかったよ」
それがあんまり綺麗だから、また自分はこの人に甘くなるんだ。
(―じゃあ、これでもう薬も飲めますね。)
title:空をとぶ5つの方法