君の知らない物語
一、
手を伸ばすと、押さえつけていた岩肌は消えていた。体の上には土砂が降り積もっていたが、自分でどうにもならないほどの量ではなかった。
手足を突っ張って、身を起こした。背中から土が落ちていく。頭を振って眼を開くと、まだ目の前は真っ暗だった。目の前の闇が自分の影であると気付くまでに、しばし時間を要した。
顔を上げると、眩しいほどの月が浮かんでいた。
星は降り注ぐような光を放っている。
その明るさが、憎らしくて堪らなかった。
二、
気がつくと、全くの闇だった。
それは光が無いのではなく、目隠しによって眼が開いてないのだと気が付いた。
親指で目隠しをずらし、頭を振って飛ばした。
目隠しされるのが好きなのではない。ただ、林冲が好きだから付き合ってやった。
躰の上に降り積もる土砂のような重みは、林冲だろう。
身を起こし、寝こけている林冲の身体をずらす。軽く帷子を纏い、窓に近付く。
月はなく、突き刺さるような星明かりが眩しかった。
部屋の中には一つの光源もない。ただ、沈むような暗闇がある。
肩越しに林冲を一度顧みて、窓から逃げるように出た。
「星を見に行こう」
言い出したのは、史進である。
「ほお、たまには風情のあることを言うのだな」
「おい、馬鹿にしてんのか?呼延灼」
「いや、済まない。意外だ、と言いたかったのだ」
「しかし、何故そんな事を突然言い出したんだ?」
阮小七が首を傾げながら言った。
「たまには若い奴同士で酒でも飲みながら星を見たって罰は当たらねえだろう?」
「まあ、確かにおまえらと来たら朱貴の店に入り浸ってるからなあ」
「朱貴もいい迷惑だろう」
「そこの生っちろい男、嫌味を言っても仲間には入れてやらねえぞ」
「喜んで辞退させて頂こうか。面倒事に巻き込まれるのはごめんだからな」
「こらこら、お前ら仲良くしろよ」
史進の肩に組み上がりながら、皺の浮いた顔が現れた。
「酒を飲むなら摘みも考えねばなるまいて」
「解珍の秘伝のたれでも提供してくれるのか?」
「そうさなあ、混ぜてくれたらそうしてやってもいい」
解珍が好々爺のような笑みを浮かべて言うと、史進は唸りながら考え込んだ。
「もちろん、こっちの先輩たちもな」
「なんだと?」
「おい、解珍。私は行く気は」
「なあ、呼延灼も行きたいだろう」
拒否しようとした公孫勝の言葉を遮って解珍は呼延灼に顔を向けた。
「ああ、それはいいな。解珍殿の生肉がまた喰えるのなら、童貫元帥の本陣へでも行ける」
「ついでに人数も多い方が良いだろう?」
「騎馬隊の扈三娘がいれば一層華やぐだろう」
「馬麟は細やかな気遣いが上手いと聞く」
「劉唐は話が面白いらしいぞ」
「孔亮は艶っぽい話が聞けそうだ」
「樊瑞をからかうと面白いと聞いたな」
「待て、おまえら、私の部下たちに何をしている」
「別に?からかうくらいのことは李俊にもしているが?」
「心配なら、付いて来れば良いだろうに」
解珍に朗らかに笑いながら言われて、公孫勝は呻き声を上げた。
呼延灼なら嫌味の二つや三つを投げかけてやるが、どうにも解珍ばかりは苦手だった。
気が付くと丸め込まれ、参加することになっていた。さぼったら、のこのこと出て行くであろう部下たちの身が危ぶまれる。
こういう時に為す術を、公孫勝は知らなかった。
遅く到着した公孫勝は、輪を作っていた解珍に輪の中に引き込まれた。
抵抗する気も起きなくて、公孫勝はなされるがままに解珍の隣に腰を下ろした。
「来たのか。意外だな」
「部下たちを見殺しには」
出来ない、と言いかけて公孫勝は絶句した。今の声は、解珍の声ではない。
左隣に座っていたのは、林冲だったのだ。
公孫勝の経緯を考えれば、林冲も来ざるを得ないのは分かる。
しかし。
「おまえと一緒にするな、この暇人」
「さっきおまえは自分で部下のために来たと言っただろう。それと同じだ。嫌味を言うだけ、おまえ自身に返ってくるぞ」
なんと忌々しい男だろうか。
無言になったまま、公孫勝は杯を煽った。
三、
解珍や史進、馬麟までもが酔い潰れ、劉唐は酒甕を片手に樊瑞に馬鹿話をしつつ樊瑞はなにを思ったかそれを大真面目な顔をして聞いている。
孔亮はぐでんぐでんに泥酔した扈三娘に絡まれて凍り付いているし、助けを求めるように孔亮が袖をひいている楊雄はへらへら笑いながら孔亮を見ている。
静かなのかうるさいのか分からなくなってきた輪から外れ、公孫勝は崖の上に登った。
眩しいほどの天の川を見上げ、静寂を楽しむ。
「あれが織姫だ」
隣から突然聞こえた声に公孫勝は肝を潰した。振り返ると、林冲が立っている。どうやら崖を登ってきたらしい。
自分の隙を憎みながら、林冲を睨みつける。
「しかし、飽きはしないのか?年がら年中、機と向き合ってみみっちい作業の繰り返しという生活は」
「知らん」
冷たく返したつもりだったが、林冲には通じていないらしかった。
「公孫勝、機とは人生と似ているとは思わんか」
「機?」
「そう、例えるなら自分が横糸で、自分が出会う全ての人間が縦糸だ」
「そう言う話は、樊瑞にでもしてやれ。あいつなら喜んで聴いてくれるぞ」
「俺は、おまえと話したい」
どうやら林冲は酒に酔っているらしい。
「人と交わった歴史の人生が機で、自分が死んだところで機はもう進まない。それでも、縦糸はまだ生きていれば長く先で伸びているだろう」
「では、おまえの思う織姫とは何なのだ」
「志だ」
林冲は大真面目な顔で言い切った。
「なにかをしようという想いが人を動かし、人と人を交わらせる」
「では、牽牛は?」
「甘えだ。既にある縦糸と横糸を途切れさせないために、機から手を離す機会を与えてくれる。例えるなら、今のこの宴そのものだ。違うか」
「さあな」
林冲は一通り話したことに満足したのか、酒を煽り始めた。
「ならば、縦糸がなくなった横糸はどうなる?」
「縦糸など、幾らでも足せば良い。横糸がある限り、機は織れる」
そう言ったきり、林冲は口を開かなかった。
四、
「おまえの言うことは、いつもくだらないことや嘘ばかりだ」
公孫勝は独りごちて花もない無骨な土の盛り上がりを見下ろした。
「何処にも、行き場などありはしないのだ。縦糸を見失った横糸には」
童貫の軍はそこまで迫ってきている。
「あと何年、機を織ればおまえに逢える?」
答えは何もない。
もし牽牛の元に行ったまま、帰って来ずにいられたら。
織姫は何度もそう思ったことだろう。
自分を引き止めるものは何なのだ。なぜ今、『ひとおもい』に首を掻き切って向こうへ行けないのだ。
それは、牽牛の夢。
牽牛への想い故に、成し遂げなければならない仕事の為に、自分はここに戻って来なければならない。それを放り出して行ったとて、牽牛が許してくれたとて、自分が自分を許さないだろう。
自分を引き止めるもの。
それは、志に他ならなかった。
苦しい葛藤、心の内側を、あの牽牛がどうして想像できようか。また、牽牛がいたならば、どうしてそのような葛藤に苦しんだだろうか。
葛藤する心、それは
彼の知らない物語。
手を伸ばすと、押さえつけていた岩肌は消えていた。体の上には土砂が降り積もっていたが、自分でどうにもならないほどの量ではなかった。
手足を突っ張って、身を起こした。背中から土が落ちていく。頭を振って眼を開くと、まだ目の前は真っ暗だった。目の前の闇が自分の影であると気付くまでに、しばし時間を要した。
顔を上げると、眩しいほどの月が浮かんでいた。
星は降り注ぐような光を放っている。
その明るさが、憎らしくて堪らなかった。
二、
気がつくと、全くの闇だった。
それは光が無いのではなく、目隠しによって眼が開いてないのだと気が付いた。
親指で目隠しをずらし、頭を振って飛ばした。
目隠しされるのが好きなのではない。ただ、林冲が好きだから付き合ってやった。
躰の上に降り積もる土砂のような重みは、林冲だろう。
身を起こし、寝こけている林冲の身体をずらす。軽く帷子を纏い、窓に近付く。
月はなく、突き刺さるような星明かりが眩しかった。
部屋の中には一つの光源もない。ただ、沈むような暗闇がある。
肩越しに林冲を一度顧みて、窓から逃げるように出た。
「星を見に行こう」
言い出したのは、史進である。
「ほお、たまには風情のあることを言うのだな」
「おい、馬鹿にしてんのか?呼延灼」
「いや、済まない。意外だ、と言いたかったのだ」
「しかし、何故そんな事を突然言い出したんだ?」
阮小七が首を傾げながら言った。
「たまには若い奴同士で酒でも飲みながら星を見たって罰は当たらねえだろう?」
「まあ、確かにおまえらと来たら朱貴の店に入り浸ってるからなあ」
「朱貴もいい迷惑だろう」
「そこの生っちろい男、嫌味を言っても仲間には入れてやらねえぞ」
「喜んで辞退させて頂こうか。面倒事に巻き込まれるのはごめんだからな」
「こらこら、お前ら仲良くしろよ」
史進の肩に組み上がりながら、皺の浮いた顔が現れた。
「酒を飲むなら摘みも考えねばなるまいて」
「解珍の秘伝のたれでも提供してくれるのか?」
「そうさなあ、混ぜてくれたらそうしてやってもいい」
解珍が好々爺のような笑みを浮かべて言うと、史進は唸りながら考え込んだ。
「もちろん、こっちの先輩たちもな」
「なんだと?」
「おい、解珍。私は行く気は」
「なあ、呼延灼も行きたいだろう」
拒否しようとした公孫勝の言葉を遮って解珍は呼延灼に顔を向けた。
「ああ、それはいいな。解珍殿の生肉がまた喰えるのなら、童貫元帥の本陣へでも行ける」
「ついでに人数も多い方が良いだろう?」
「騎馬隊の扈三娘がいれば一層華やぐだろう」
「馬麟は細やかな気遣いが上手いと聞く」
「劉唐は話が面白いらしいぞ」
「孔亮は艶っぽい話が聞けそうだ」
「樊瑞をからかうと面白いと聞いたな」
「待て、おまえら、私の部下たちに何をしている」
「別に?からかうくらいのことは李俊にもしているが?」
「心配なら、付いて来れば良いだろうに」
解珍に朗らかに笑いながら言われて、公孫勝は呻き声を上げた。
呼延灼なら嫌味の二つや三つを投げかけてやるが、どうにも解珍ばかりは苦手だった。
気が付くと丸め込まれ、参加することになっていた。さぼったら、のこのこと出て行くであろう部下たちの身が危ぶまれる。
こういう時に為す術を、公孫勝は知らなかった。
遅く到着した公孫勝は、輪を作っていた解珍に輪の中に引き込まれた。
抵抗する気も起きなくて、公孫勝はなされるがままに解珍の隣に腰を下ろした。
「来たのか。意外だな」
「部下たちを見殺しには」
出来ない、と言いかけて公孫勝は絶句した。今の声は、解珍の声ではない。
左隣に座っていたのは、林冲だったのだ。
公孫勝の経緯を考えれば、林冲も来ざるを得ないのは分かる。
しかし。
「おまえと一緒にするな、この暇人」
「さっきおまえは自分で部下のために来たと言っただろう。それと同じだ。嫌味を言うだけ、おまえ自身に返ってくるぞ」
なんと忌々しい男だろうか。
無言になったまま、公孫勝は杯を煽った。
三、
解珍や史進、馬麟までもが酔い潰れ、劉唐は酒甕を片手に樊瑞に馬鹿話をしつつ樊瑞はなにを思ったかそれを大真面目な顔をして聞いている。
孔亮はぐでんぐでんに泥酔した扈三娘に絡まれて凍り付いているし、助けを求めるように孔亮が袖をひいている楊雄はへらへら笑いながら孔亮を見ている。
静かなのかうるさいのか分からなくなってきた輪から外れ、公孫勝は崖の上に登った。
眩しいほどの天の川を見上げ、静寂を楽しむ。
「あれが織姫だ」
隣から突然聞こえた声に公孫勝は肝を潰した。振り返ると、林冲が立っている。どうやら崖を登ってきたらしい。
自分の隙を憎みながら、林冲を睨みつける。
「しかし、飽きはしないのか?年がら年中、機と向き合ってみみっちい作業の繰り返しという生活は」
「知らん」
冷たく返したつもりだったが、林冲には通じていないらしかった。
「公孫勝、機とは人生と似ているとは思わんか」
「機?」
「そう、例えるなら自分が横糸で、自分が出会う全ての人間が縦糸だ」
「そう言う話は、樊瑞にでもしてやれ。あいつなら喜んで聴いてくれるぞ」
「俺は、おまえと話したい」
どうやら林冲は酒に酔っているらしい。
「人と交わった歴史の人生が機で、自分が死んだところで機はもう進まない。それでも、縦糸はまだ生きていれば長く先で伸びているだろう」
「では、おまえの思う織姫とは何なのだ」
「志だ」
林冲は大真面目な顔で言い切った。
「なにかをしようという想いが人を動かし、人と人を交わらせる」
「では、牽牛は?」
「甘えだ。既にある縦糸と横糸を途切れさせないために、機から手を離す機会を与えてくれる。例えるなら、今のこの宴そのものだ。違うか」
「さあな」
林冲は一通り話したことに満足したのか、酒を煽り始めた。
「ならば、縦糸がなくなった横糸はどうなる?」
「縦糸など、幾らでも足せば良い。横糸がある限り、機は織れる」
そう言ったきり、林冲は口を開かなかった。
四、
「おまえの言うことは、いつもくだらないことや嘘ばかりだ」
公孫勝は独りごちて花もない無骨な土の盛り上がりを見下ろした。
「何処にも、行き場などありはしないのだ。縦糸を見失った横糸には」
童貫の軍はそこまで迫ってきている。
「あと何年、機を織ればおまえに逢える?」
答えは何もない。
もし牽牛の元に行ったまま、帰って来ずにいられたら。
織姫は何度もそう思ったことだろう。
自分を引き止めるものは何なのだ。なぜ今、『ひとおもい』に首を掻き切って向こうへ行けないのだ。
それは、牽牛の夢。
牽牛への想い故に、成し遂げなければならない仕事の為に、自分はここに戻って来なければならない。それを放り出して行ったとて、牽牛が許してくれたとて、自分が自分を許さないだろう。
自分を引き止めるもの。
それは、志に他ならなかった。
苦しい葛藤、心の内側を、あの牽牛がどうして想像できようか。また、牽牛がいたならば、どうしてそのような葛藤に苦しんだだろうか。
葛藤する心、それは
彼の知らない物語。
作品名:君の知らない物語 作家名:龍吉@プロフご一読下さい