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この身を堕とす、甘い誘惑-Prologue-

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「―――――――――もうすぐ、か…。早く、逢いたいな…」
≪―――――15年か。人間(ヒト)の施した封印にしては、保った方か?≫

月明かりだけが光源の薄暗い部屋にいたのは一人だけだったはずなのに、ポツリと呟いた言葉に応える“声”があった。

「あれ。降りてくるなんて、珍しい」
≪忘れたのか。私はお前の監視役だぞ。≫
「よく言うよ。直接的な干渉は出来ないくせに」

くつり。
この部屋の主――青年への階段を上り始めた少年が、嘲るように冷たく笑う。
視線は窓辺から外へと向けたまま、“声”の方へと振り返りもしない。

≪こうも悪魔共が活発化していては、お前から目を離すのは危険過ぎる。≫
「ああ……この魍魎(コールタール)…………『腐の王(アスタロト)』が、もう嗅ぎつけてきたのか…」

忌々しい、と。
不快も露わに、少年が言う。その視線だけで、相手が射殺せそうだ。
その鋭い視線が、ふと和らぐ。

「『君達』から、『彼』はどう見える?」

そう言って振り返る少年の眼差しは、ただ一人を想っているからか、先程の鋭い視線が嘘の様に柔らかく、優しい。
少年の言葉を受けて、もう一人の―――まるで光を編み上げたような、きらきらと燐紛を撒き散らしているようにさえ見える、この薄暗い部屋にいてなお輝いて見える青年は、ふむ、と顎に手を当てて考え込んだ。

≪―――そう、だな…。あのような境遇にありながら、捻じれることなく真っ直ぐに育ち、疎まれてもなお、不器用ながらも優しさを失わない姿は好ましく――だからこそ、その生まれを哀れにも思う。お前のような者に【愛】を抱かせるとは驚嘆に値する―――が、お前のようなモノに魅入られるとは、例え悪魔といえども同情を禁じ得ないな。≫
「ふぅん…。言っとくけど、手を出したら――――殺すよ」
≪誰が出すんだ。お前と一緒にするな。≫

否定的な言葉が出ないのは良いが、好意的なのも面白くない。
そう言う少年に、青年は呆れた溜息を零す。どうしろというのだ。
だが少年は取り敢えず青年の言い分に満足したらしい。ならば、と次の質問を口にした。

「あの聖騎士(パラディン)殿は?」
≪不真面目でいい加減。≫
「端的だね。それだけ?」
≪―――だが、失くすには惜しい腕だ。≫
「―――――へぇ…」

良いこと聞いた、と。少年の顔が楽しげに歪む。それに嫌な予感を覚え、青年は眉間に皺を寄せた。

≪まさか、干渉する気か?≫
「だって、失くすには惜しいんでしょ?僕も彼のことは嫌いじゃないしね」
≪だが良いのか?――…≫
「『覚醒は聖騎士の命と引き換え』、っていうアレ?その辺はどうとでもなるし、どうにでもするよ。だって、」
≪あの子供に疵が残るのは赦せない――――か?≫
「さすが。伊達に10年も僕を見張ってた訳じゃないね。そうだよ。彼が死んだら、あの人の心に一生消えない傷が残ってしまう。そんなのは赦せないし、赦さないよ。心にも、身体にも。僕が付けるもの以外――――何一つ、赦さない」

真っ直ぐに青年を見据える少年の瞳には、深い深い『闇』がある。
こうして少年が『闇』を浮き彫りにさせると、青年は嫌でも思い知る。この少年を動かすことが出来るのは、少年に愛を教えた子供だけなのだ、と。

≪本当に………あの子供は、哀れなことだ…。お前のようなモノに魅入られ、逃げることすら出来ないとは…≫

はあ、と疲れたように重い溜息を吐く。そんな青年を見ても、少年の『闇』は薄れない。

「でもそのお陰で僕は『君達』の都合のいい『武器』でいてあげてるんだから、感謝して欲しいね。無駄な犠牲、出さずに済んでるだろう?」

優しげな相貌を裏切ることなく柔らかく微笑む少年は、けれどただ一人を除いて等しく冷徹にもなれることを、青年は知っている。たった今嫌いじゃないと言った聖騎士だろうと、眉一つ動かさずに殺せるだろう。

ただ一人だけを愛し、
ただ一人だけの為に動き、
ただ一人だけの為に殺す。

その行動原理は、いつだってたった一人、この少年が愛するあの子供だけ。

それが人間(ヒト)であったなら、なんと危ういことだろうか。
だが少年は、今のその身は人間(ヒト)であっても、決して人間(ヒト)にはなり得ない。
だから、だろうか。傍目には酷く危うげに見えても、その実、決して揺らぐことは無い。

≪はぁ…。≫

この少年を見ていると、青年は思わず問うてしまいたくなる。神に問うことは、タブーであるというのに…。

「そんなに心配しなくても、『契約』がちゃんと生きている間は、君達の都合の良い武器でいてあげるさ」

チャリ、と首から下げている十字架を持ち上げて、少年は楽しげに嗤う。

もっとも、こんな首輪はいつでも簡単に外せるんだけど、と音にこそされなかった言葉までもを正確に読み取って、青年はもう一度大きく溜息を吐いた。

やはり、青年は問わずにはいられない。
神よ、なぜこのような存在を生み出してしまわれたのか―――――と。

だが少年は、そんな青年の嘆きなどどうでもよさそうで、まるで興味を示さない。

「君は精々彼等に釘を刺しておくといいよ。あの人が人間(ヒト)という種に絶望した時に、世界が終わる―――と、ね」

まるでそうなることを待ち望んでいるかのように、少年はにこりと笑う。
本当の意味で敵にまわったその時、一体どれだけの犠牲が出るのか、見当もつかない。人間(ヒト)にも、悪魔にも。

だが一つだけ、確かに想像出来ることがある。
人間(ヒト)と、悪魔と。どれだけ多くの屍の上に立とうとも、この少年はあの子供を腕に抱き幸せそうに笑うのだろう。

哀れな存在だと、思う。あの子供も―――――目の前の、この少年も。
だがそんな青年の、らしくも無い感傷こそ、少年にとってはどうでもいいことなのだろう。


「―――さて。そろそろ、行こうか」

そう言って、月明かりを背に笑う少年は、着ている服も相まって、まるで『闇』を纏っているようだった。

否。

コツリと、重さを感じさせずに歩く度に、少年の周りで『闇』が揺らめくその様は。


まさに『闇』の――――――王、そのもの。




10年、少年を見続けてきたからか。
少年が、【愛】を知り【愛】を抱いているからか。
どうにも、少年に情が移ってしまったように思えて仕方がない。

少年が青年の目の前を通り過ぎ、パタン、と扉が閉じられるまで。
その姿を見送って、やれやれと肩を竦めて、青年もまた姿を消した。

まるで光を散らすように、僅かな軌跡だけを残して―――――…。