砂時計の落ちた日
【砂時計の落ちた日】
綺麗な月を見上げていたら、不意に涙がこぼれた。
いつの間に、こんなに遠くに来てしまったんだろう。
遠くなる重ねた日々がまるで夢のよう。
「綺麗ですね」
涙を見られまいと乱暴に袖で拭う。
咎めるようにその腕を引っ張られて振り向けば、白い指先が擦ったせいで赤くなった皮膚を撫でた。
ひんやりと冷たいその感触に、思わず見つめれば不思議な色を湛える黒曜石が見つめ返してくる。
―ついにその奥底を知らぬままだったな、と。
ぼんやりと遠くで思った。
「…き」
「イギリスさん」
名ではなく、自身が背負う本来のそれを呼ばれてイギリスは開きかけた口を噤む。
こちらを見ている日本は、ただ穏やかに微笑んでいた。
「どうか、お元気で」
続く言葉をつなげられず、ただ俯く。
縋りつくこともできたと思う。
でもそれをしたくはないと思った。
言葉が見つからない。何かを言いたいのに。どうしても。
脳裏に、遠ざかって行った雨の日の大きな背中を思い出す。
あんな風にまた、なくしていくのかと思うと悲しかった。
それでもどうしても見つからない。
言葉も。思いの伝え方も。
「…私は幸せでした。あなたもそうであってほしいと、今も願っています」
抑えた声は甘い低さをもって言葉を紡ぐ。
その声に名前を呼ばれることが、とても好きだった。
誰かから無償の愛情をもらったことなんてなかったから、その真綿でくるまれているような優しい愛情がとても幸せで切なくて、泣いてしまうくらいに嬉しかった。
いつまでもそのままでいられると思ってなんていなかったけど。
それでも。
「…結果としてこんな形になってしまいましたが、忘れないで頂きたいのです。私は今でも、あなたを大切に思っています」
早く、何かを言わなくちゃ。
手遅れになる前に。
時間の前に、自分はあまりにも無力だ。
去ろうとするとものを捕まえておくことができるだけの力があればよかったのに。
しがらみも、責任も、義務も、全部投げ捨てて。
でもそうするには、何もかもを知りすぎてしまっていた。
「…どうか、幸せに」
決壊する思いは、涙となって頬を伝う。
少し驚いた顔をした日本は、言葉もなく泣くイギリスの頬にそっと触れる。
ひんやりとするその感触を、もう感じることはないのだ。
もう、二度と。
「泣かないで」
魔法が使えたらいいのにと思った。
もっとちゃんとした、全てを覆せるような魔法。
失っていくものも繋ぎとめられるような―奇跡を起こせる魔法を。
「……笑ってください、…アーサーさん」
容赦なく落ちていく砂時計を止める術は誰も知らない。
頬に触れる冷たい手に自らの手を重ねて、笑って、みせた。
残せるものはこれくらいしかない。
それならせめて。
「……ありがとう」
彼の黒曜石の双眸が潤んでいることにやっと気がついた。
この手にもう少し力があればよかった。
それでも自分は在るべき場所へと帰らなければならない。
彼が、そうであるように。
相容れない。相容れることができない。
金色と、黒。緑と、黒。
まじりあうことのできない色は、反発し合うまま。
それでも確かに重ねた日々の中で自分は幸せだった。
それだけは確かで。
「…今夜は月が綺麗ですね」
頬を撫でた手が離れる。
愛した、あの優しい笑顔と一緒に。
「……お前のためなら、俺は死んでもいい」
震える唇が紡いだ、彼の国の言葉。
伝わってくれ。
伝わってほしい。
…伝わっただろうか。
「……ありがとう」
消えていく。
消えていく。
浮かんで消える、色んな思いも言葉も。
彼は消えていく。
手の届かない時の中に。