紳士の嗜み
紳士らしくをモットーに過ごしていたヨーロッパ支部で、ウィルバーさんは乗馬やフェンシングなど、紳士らしい趣味に挑戦した。
……結果は言わずもがな。馬からは振り落とされ、フェンシングではスマートに負け続けた。
「ウィルバーさん、あっちに乗りやすそうなポニーがいますけど」
「何を言うかロン毛。紳士はサラブレッドに乗ってこそだ!」
高らかに宣言するウィルバーさんは誇らしげだ。泥にまみれていなければもっと格好良かっただろう。
この時点で俺はサラブレッドどころかポニーすら乗りこなせないだろうと当たりをつけていたのだが、やはりというか、一ヶ月経ってもウィルバーさんの乗馬術は上達しなかった。フェンシングも同様の有様で、誰かに勝つということはまずない。
「ところでロン毛。私も馬の扱いが上手くなったとは思わないか」
「まあ、少しは上手くなったんじゃないですかね」
馬の手綱はろくに操れないものの、蹄の掃除はできるみたいだし。フェンシングも踏み込みや体勢はともかくとして、構えだけは様になってきている。ウィルバーさんはきちんと努力する人なのだ。しかし殊運動に関してはからきしと評してもいいくらいで、乗馬もフェンシングも彼の鬼門だ。絶対に習得出来ない。
あくまで嗜みとして、経験としての手習い。
いつもは涼しい顔をしているのにこういうことになると汗を流して真剣な表情を作るのだ、この人は。報われるかなんて分からないのに。
「紅茶、淹れましたよ」
「ああ、ご苦労」
香りを堪能してから紅茶に口を付けるさまはいつ見ても様になっている。紳士というより貴族と呼んだほうが相応しいような洗練された優雅な振る舞いだ。
「で、これからどうします? 何もないのなら俺はもう上っちゃいますけど」
「ロン毛、君は帰って何をするんだ」
「そうですね……飯食って、シャワー浴びて、チェスを指します」
「チェス?」
ウィルバーさんの眉がくいっと上がる。相当意外だったのか、興味津々といった顔をしていた。
カップをソーサーに置いて、完全に聞く姿勢を作っている。先を続けろと言わんばかりの態度には慣れっこだ。
「プロの棋譜を見ながら駒を動かして戦略を覗くんです。面白いですよ」
「誰かと対戦しないのか?」
「相手がいませんから」
「お前は本当にロンリーだな」
からからと紳士らしくない笑い声を上げるウィルバーさんはレアだ。いつもは含み笑いしかしかしないのに、ツボに入ると酒が入ったみたいに箍が外れる。
それにしても、本当に珍しい。俺がインドア派なのは今に始まったことじゃないのに。
「なあ、ロン毛」
「何ですか、ウィルバーさん」
「私もチェスをやりたいのだが」
「じゃあ明日にでも一式持ってきますよ」
「……私はお前の家に行きたいと言ってるのだよ、察したまえ」
帰り支度をしながら答えていると、ウィルバーさんが心底呆れたような声で俺に駄目出しをした。まったく、紳士のお誘いは分かりにくくて理解するのが難しい。
まあチェスをするだけならと俺は了承の言葉を発しながら、一人分から二人分に増えた夕食の材料を計算し直す。ついでにインスタントの紅茶を買おうかとも思ったが、この人が渋い顔をするのが目に見えていたので今日のところは止めておいた。