守りたいもの全て
特務支援課ビルの屋上は、眠れない夜の暇潰しに最も身近な場所だった。屋上の主であるところのコッペは、昼間はここで船を漕いでいることが多いが、夜はほとんど姿を見せない。たまたま覗くタイミングが悪いのかもしれないが、猫なりに気を利かせてくれているのではなどという妄想をするのは割と楽しい。
にゃん、と計ったようなタイミングで背後から声がかかって、やっぱり妄想だったかと一人笑う。振り向く間もなくコッペは、ルーフバルコニーの手摺りについたロイドの肘の間に器用に降り立った。
「わ、危ないだろ」
慌てて囲い込むように柔らかな身体に両腕を回すと、ご機嫌な様子で屋上の主が頬に鼻先を付けた。ざらりと舐められてロイドはつい目を細める。危なげなく手摺りの上に落ち着いているのを見ると、このくらいの芸当は彼(彼女?)にとっては朝飯前なのかもしれない。
ロイドは温かな毛並みにそっと顔を寄せた。よく日に当てた干し草のような匂いがする。コッペが喉を鳴らす音が随分遠くから聞こえる気がした。眠れるにせよそうでないにせよそろそろ自室に戻らないと明日に響く時間になっているはずだ。しかしどうしても足が動いてくれない。
ふわりと温もりの残る何かに包まれて一つ心臓が跳ねた。
コッペを払い落としてしまわないよう慎重にロイドが振り返ると、赤毛の同僚が目に入る。肩に掛かったのは彼の上衣に相違なかった。
「次々増えるな」
思わず独りごちる。
何が、と首を傾げるランディに、腕の中の住人を示してみせて「で、次がランディ」と説明してやる。
なるほど、とわかったのかどうかさだかでない返事をして、ランディはロイドを腕の中に収めた。ちょうどコッペの顔の前に被さった右掌に、お愛想程度に柔らかな耳が擦り寄せられる。驚き目を見開いたロイドは、だが彼の腕を拒もうとはしなかった。
「今夜は冷える。傷に障るだろ」
耳元で囁く声は、些か不機嫌そうにも聞こえた。
「怪我人扱いはもう飽きたんだけど」
「そういうことは完治させてから言うもんだぜリーダー」
揶揄する口調で指摘された傷は、動かさずにいればほとんど気にならなくなっていた。逆に言えば動けば障るということだが。
「眠れないか」
「……」
「ま、そうだろうな」
図星を突かれてロイドが答えあぐねると、ランディは勝手に結論を攫った。
事の起こりは朝一番の来訪者だった。
神妙な顔をして玄関に立っていたのは、一人の女性。身につけている物はむしろ質素な部類ではあるが、立ち振る舞いから育ちの良さを感じさせる上品な婦人だった。
形ばかりの応接室に通された彼女は、立ち会ったロイドの顔を見るなり顔色を失い深々と頭を下げた。
「この度は愚息が大変なことをいたしまして…!」
絞り出すような謝罪に、特務支援課メンバーは事情を察しロイドを残して席を外した。
彼女はロイドに刃を向けたあの少年の母親だった。何度目かの「どうぞおかけになってください」「いえそんなわけには」の押し問答の後、ようやくソファにかけた婦人はぽつぽつと少年について語り始めた。片親故十分に目をかけてあげられなかったこと、最近は友人に恵まれて楽しそうにしていたので安心していたこと、できる限りのお詫びはさせていただきたいとの言を思い詰めたように話す彼女に、ロイドはこちらにも落ち度があったこと、捜査の詳細は伝えられないが決して彼だけのせいではないことを説明した。未だ全貌を捜査中のグノーシスの名前を出すことができないために、彼女を納得させるにはひどく骨が折れた。が、よく見れば目の下の薄い隈、ひび割れた唇、まとめ髪から幾筋かこぼれ落ちた後れ毛が婦人の苦悩を物語るようで、少しでも負担を和らげられるようにロイドは根気よく言葉を尽くしたのだった。
「本当に、申し訳ありませんでした」
玄関先で再び頭を下げようとする彼女をやんわりと押しとどめ見送った後、ロイドは傷よりももっと胸の奥が捩れるように痛むのを感じていた。
「あんなこと、言ってもらうために捜査官になったんじゃないんだけどな」
弱音は吐いたそばから闇に溶けていった。ランディは何も言わない。
目に見える怪我なんて治りさえすればどうということもない。けれど彼女の心の傷は手当てしてどうにかなるものではない。あのとききちんと避けられていれば、いやそれ以前に全てのグノーシスを回収できていれば、あの親子が悲惨な思いをせずに済んだのだ。
「俺は、全部守りたかったんだ、彼女も、あの子も」
不意に胸が詰まって下を向く。この手で守りきれるものはあまりにも限られすぎている。
「……守れよ」
ランディが沈黙を破った。
「お前さんが守りたいもん全部。命さえあればチャンスはいくらでもある。あの親子にだってもう何もしてやれないわけじゃないだろ」
「ランディ」
ロイドの声は何かを抑えつけるように掠れた。
「それに全部守りたいなんて、俺らはおろか警察の連中なら多かれ少なかれ皆思ってることだ」
一人じゃない。お前さんの味方は星の数ほどいる。
断言してランディはロイドを抱く腕に力を込めた。窮屈に感じたか、コッペが不満の声を上げてロイドの腕を抜け出す。そのまま羽のように跳んでランディの背中を踏み台にコンクリートの地面へと降りた。
「って!」
踏まれたついでに爪を立てられたランディがコッペを睨む。恨みがましい視線などどこ吹く風で毛を繕い始めた屋上の主に、ロイドは思わず笑みをこぼした。興を削がれた様子のランディは建物の入り口へととって返す。
「ランディ」
「何だ」
「ありがとう」
ランディは背中越しの礼に振り向きもせず、右手を軽く振って応えた。素っ気ない返礼に僅かな照れが垣間見える。
上着は借りておいて明日返そう。それに少しは眠っておかないとな。
今度は素直に足が動いた。
「おやすみコッペ」
声を掛けてはみたが、屋上の主は未だ毛繕いに忙しいようで返事はなかった。