酸化する青
窓ガラスが滲む。
それを見て、雨、と呟いた燐に、雪男は向き合っていた自分の机から視線を静かに上げた。
さあっ、と雨の降る音が鼓膜を震わす。換気のために少しだけ開けていた窓から、湿った雨の匂いが舞い込んでくる。小さく息を吸い込むと、その雨の香りと日中の熱を奪われてゆくアスファルトの匂いがした。
そのまま空を仰げば、ゆるやかな日差しの中に青が見えた。雪男が狐の嫁入りかな、と言うと、少し間を置いてから、嫁ぐことがあって良かったな、と隣の机に向かっている燐から声が返ってくる。その声は酷く落ち着いて、どこか頼りない。雪男は小さく溜息を吐いてから、燐がいるはずの方へと振り返った。その時に背凭れに体重を少しかけた所為か、木製の椅子が、ぎぎ、と僅かに軋む。
すぐ隣にいる燐は、勉強をしているという姿勢ではなく項垂れたように机に腕を置いてほとんど顔を埋めていた。雪男の視点からは燐の髪しか見えず、表情は窺えない。だから、兄さん、と呼ぶ。すぐに、なんだ、と返ってくる。
それでもやっぱり姿勢は動かないままで、じっと、その視線の先なのであろう、ゆるやかな日差しの中に存在している水時計を眺めていた。雪男からも、水時計の中身がゆったりと落ちてゆくのは見えていた。色は優しい水色だったが、角度を変えれば濃い青にも、碧にも見える不思議な水時計だった。
それを始めて見た時、あまりにも珍しいものだったので雪男は、どうしたのそれ、と燐に訊ねた。答えはとても簡潔的だった。しえみから貰ったんだよ。
燐が料理を得意としていることを知ったしえみは、今時アナログだけど、と恥ずかしそうに言って、以前祖母が寝ていたという蔵からそれを出してきたそうだ。少しだけ珍しいそれに燐も素直に驚いていたが、貰うことに慣れてなかったので最初は断ったという。でも、綺麗でしょう、と笑ったしえみに押し負けて、貰ってきてしまったそうだ。
それから料理で使うこともあれば、こうしてただ目の前に置いて眺めている時間が増えた。
こういう時、燐が何を考えているのか、雪男はあえて思考しないようにしている。双子と言っても違う個体であったし、余計なことを口走って燐の気持ちを乱すのも面倒だったからだ。だから当たり障りのない、いつもの言葉を投げる。
「せっかくしえみさんから貰ったものなんだから、うっかり壊さないようにね」
雨の匂いが鼻をくすぐる。
雨を通して降りそそぐ陽に、燐の目の前にある水時計の色がゆらゆら揺れた。
まるで生きているみたいだと思い、その綺麗さに雪男が頬を緩めると、壊さねえよ、と燐が言った。そう言いながらやっと体勢を変える気になったのか、ぐぐっと両腕を天井へと上げ、背筋を伸ばした。それと一緒に項垂れていた尻尾もふわりと意志のある動きを見せる。そうして雪男の方へ顔を向け、困ったような顔で微笑った。
「お前の色もあるのに、壊せるわけねえだろ」
大事にする。そう、微笑う。
どれもこれも朽ちないわけがない。
燐と雪男が使っている椅子も、今此処に在る校舎も、15歳まで育った修道院も、出逢った人も、すべてのものがいつか失われてゆくのだと知ってしまった燐だからこそ出た言葉だった。その中に自分も含まれていることを、今この瞬間突きつけられた雪男は、思わず震えた唇を噛んで、目を細めた。
不意打ち過ぎて普段なら誤魔化して出る溜息も出なかった。上手く繕えないまま、燐は雪男に、泣くなよ、とやさしく言う。
ああ、バカだな兄さん。心の中でそれだけを嘯く。泣いてはいなかった。それは確かだった。
だけど言いたい言葉は、やはり出なかった。
そんな中、水時計の中身が余すことなく下へ落ち終わった。ゆるやかな光に青が揺れ、静かに鼓動を止めたように時を止める。
それが合図の様に、外で降っていた束の間の狐の嫁入りは、無事に終幕を迎えたようだった。
(なら泣かないで、笑えよ、兄さん)
酸 化 す る 青