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夢見が淵

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おれは間違えた、あのとき間違えたんだ、両手で顔を覆って深く深く俯く、そうすると目の前が真っ暗になって何度でもあの奈落が見える。

 深い深い淵だった、おれはあの奈落を這い上がって俺たちの父親が世界を救いに来たなどとは信じない、あれは死の淵にほかならない、だからおれたちの父親はハデスの鎖に逆らう蛆虫の湧いた死体だったに違いない。おれはおれたちの父親が嫌いだ。それはもう人間が蛆虫を憎むより酷く───悪魔がどんな風に蛆虫を憎むか知っているか?───あの奈落の底ごと呪っていたのだ。

 この日の当たる明るい世界の表面で甘い果実の皮にへばりつく蟻のごとき人間。人間を憎むか悪魔を呪うか。おれたちには二つに一つだった。おれたちはきれいに半分ずつ人間であり悪魔だったので、両方を疎んじていたら生きているのがすっかり厭になってしまうに違いなかったからだ。
 本当のところ、おれたちは二人ともどこかで、一度は生きているのがすっかり厭になってしまった頃があったんじゃないかと思う。おれは実際に自分がこれでこの世に───とりあえず「この世」に、だ───とうとう一人ぼっちになってしまった、と思ってから暫くして、悲しみやら怒りやらがすっかり出て行ったあとに残った穴がまるであの奈落のようだ、と感じたことがあった。それはあまりにも暗い穴だった。これを抱えたまま人間のふりを続けていると気が狂うのではないかという苦痛には苛まれ、いっそのことなにもかも止めてしまおうかと思わされるような、どす黒い穴だった。
 苦痛、それ以外に何でもない。迷いでもなければ不安でもなく、恐れでもない。なぜならおれには最初から分かっていたのだ、この穴はおれたちの父親が這いずって出て来た奈落、おれが血を分けた兄を突き落とした死の淵、それそのものだと。

 今になって考えてみると、おれたちはとてつもなく寂しかったのではないかと思う。二人が二人ともまるで違う形、似ても似つかないやり方でそれを埋めようとしていたけれど、おれたちは寂しかった。せめて腕と足が六本ずつあったり、棘のついた尻尾がうじゃうじゃと生えていたりすれば良かった。なぜこんな風に人間らしい姿でこの世に生まれて来たのだろう。
 母親そっくりの青い目。冬になると親指の爪の際がささくれる性質も母親に似た。それなのにおれたちはどうしようもなく残酷な性を血管の中に宿していて、小さな犬の首にひもを結んで無理矢理引きずり回すような非道な真似に愉悦を覚える心臓を持ち合わせていた。恐ろしくてたまらなかった。小犬を弄ぶのが愉しいなどと、どうしてひとに言えたろう。おれは愛らしい小犬を打ち据えてその頭を踏みつぶす妄想にとらわれて一人で震えた。
 年が長じて、おれは自分の血を支配する性を飼いならすことにした。至って鉄面皮を装い、怠惰なりに金を稼ぐように努め、器に入った食べ物をスプーンで食った。澄んだ青い目を褒められれば微笑んだ。指のささくれを噛んでささやかな痛みを学んだ。愛されようと努力した。愛されるために、愛した。

 おれたちはとても寂しかった。寂しいという理由で抱き合うべきではないかもしれない。それでも寂しさを埋めるために、おれたちが互いに一人で試みたことを思うと、後悔で胸のつぶれる心地がする。おれの血管の中に流れていた血は、父親でも母親でもなく、兄弟で分かち合ったものだった。片足を引き潰され血を流しながらびっこを引いて歩く猫を見て、殺してしまいたいな、と呟いたのはどちらだったろうか。猫を殺す必要はなかった。助けてやる必要もなかった。ただ耳元にそっと口を寄せて、今あの猫を殺してしまいたいと思ったのだと、誰にも言えない秘密を互いにだけはせめて言ってやれば良かった。おれはそう言いたかった。そう言って欲しかった。

 誇りで飯は食えないが、誇りで孤独を埋めることはできる。おれは孤独を埋めるのに父親の誇りを利用した。誇りのために兄を奈落の底へ追いやった。孤独を埋めるために血を分けた兄弟を葬った。また孤独がやってきた。真っ暗な穴の形をした孤独が。
 おれは追い付かれた。仇を討った母親の死体に足を掴まれたようだった。振り解けなかった。おれは母親を愛していた。彼女は人間である以前におれたちの母親だった。だから母親の顔をした深い深い孤独、あるいは固執、あるいは死の匂いのする柔らかくて生暖かい穴から逃れられなかった。もうなにもかも止めてしまおうと思った。
 おれは間違えた、何度となく間違えた、両手で顔を覆って深く深く俯く、そうすると目の前が真っ暗になって手の指の隙間からあの奈落が見える。おれをこの世に生み出した穴、血を分けた兄弟を追いやった地獄の淵、呪わしい悪意を吐き出す血の源、父親が這い上がって来た崖、ついに埋め切れなかった孤独。それはいつもおれたちの傍らにあった。それがおれたちを繋いでいた。血よりも誇りよりも深く、強く、惨く。

 愛しい暗闇。おれは初めて自分がきれいに半分だけ悪魔だと言う因果な血を愛した。触れれば骨まで黒く爛れるような悪意に満ちた、深い深い淵を腹の中に抱えて、それを両腕で抱き締めた。なにもかも止めてしまうとは、とおれは今でもパフェグラスに添えられた銀色のデザート用スプーンを手慰みに回しながらよく考える。それはこの穴の誘惑に負けてしまいこの奈落にスプーンではなく手づかみでむしゃむしゃと食われてしまうということかも知れない。悪くない想像だ。そう思うと少しだけ気が楽になり、たまに食事を途中で放り出して目を閉じ、深淵を覗き込もうとしたりもする。穴はあまりにも真っ暗なのでまるで盲いたように何も見えやしないのだが。人間の明るい世界に慣れ過ぎた所為だろうか。それでもおれは自分が人間だと思ったことなど一度もない。死ぬときはこの闇に還る身だ───悦んで死神の鎌に貫かれ、ハデスの鎖に繋がれる。おれたちは死してもこんな風に腹の底から一つなんだ、っていま兄貴はとてもうんざりした顔でこの穴の底からおれを見ている。
作品名:夢見が淵 作家名:Julusmole