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空と兎

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嵐の気配を残す強い風が、晴れ渡る空へごうごうと吹き抜けていく。
病院の屋上は、黒いアスファルトに覆われており、そのくっきりとした境界線の端に、彼はまっすぐに立っていた。
まるで切り立った崖の上に立っているようだ、とバーナビ―はなぜか小さな痛みが胸の奥で疼くのを感じた。
「………こんなところにいたんですか」
青空を仰ぐ彼の横顔を遠くからしばらく眺めたあと、ためらいがちに声をかける。
すると彼は、ぱっとこちらを振り返り、いつものように曇りのない笑顔を向けた。
「やあ、バーナビ―くん」
その笑顔に裏表などないことを、バーナビ―はよく知っている。
そして、その笑顔と彼の明るさに、どれほど救われるひとがいるのかも。
「お邪魔でしたか?」
「とんでもない!そんな風に見えたかい?」
笑って首を傾げる彼に、バーナビ―は先ほど見つめていた横顔を思い出す。
それは裏表のない彼の、初めて見る表情だった。
喜怒哀楽の、どれにも属さない。おそらく限りなくニュートラルに近い状態だったのだろうと思う。
悪いことをしたわけではないのだが、覗き見てしまったような、わずかばかりの後ろめたさがあった。
「――――空に、焦がれているように見えました」
口にしてから、柄にもないことを言ったな、とすぐに思った。
だが、彼はそれを聞いていかにも楽しげに瞳をきらめかせた。
「なるほど!それはいいね!」
くだらないと笑い飛ばされなかったことにホッとして、それからそんな自分に、少しだけ驚きを覚える。
本当はこんな風に気軽に病室を脱け出て屋上にいるのでさえ大問題だろう。
いくら鍛えていたとはいえ、あれほどの深手が数日で完治するはずもない。
「今すぐにでも、飛んでいきたいですか?」
バーナビ―の問いに、彼は静かに微笑んだ。
「――――叶うのなら」
何かを抑え込んだ声音に滲んだものを、彼はすぐに持ち前のカラリとした笑顔で拭った。
「けれど、まずはこの傷を治すことが先だ。無理は禁物だと言われている。今も私に期待を寄せてくれるひとたちに応えるためにも、我慢、そして我慢だ!」
ぐっと両の掌を握りしめて、自分に言い聞かせるように、彼は言う。
その言葉には、一片の陰りもない。
頭上に広がる空に似て、どこまでも澄み切ったまばゆい青だ。
彼は強い。
彼のその強さを口で説明するのはとても難しい。
簡単に測れるようなものではなく、真似できるようなものでもない。
自分が彼に敵わないとは決して思わないけれど、今はまだ届かない何かがある。
おそらくそれは、これまでの自分には必要ないと顧みずにきたものなのだろう。
「あなたは今も、このシュテルンビルドのキング・オブ・ヒーローですよ」
彼の強さを説明するための言葉はわからないけれど、讃えるためにもっともふさわしい言葉なら知っている。
しかし、過去に数えきれないほど浴びてきたはずのその名に、彼は少しだけ困ったように微笑んだ。
「………その名に恥じぬようにありたいと、私はずっと思ってきた」
ぽつり、と呟くと、彼はまっすぐに空を見上げ、胸の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「ヒーローの中のヒーローという称号は、市民が私に与えてくれた勲章だ。その誇りが私を支え、ヒーローとして戦う力を奮い立たせてくくれるのだと、そう思っていた」
「それが、間違っていたと?」
「………正直、わからないんだ」
やはり少しだけ困ったように彼は微笑んだけれど、そこにもやはり、陰りや歪みは見つからない。
「風に乗って思い切り空を飛ぶことができたなら、こんなもやもやした思いも消えてしまうような気がしたんだ。だから君が、空に焦がれていると言ったのも、あながち間違いじゃない」
そう言って、彼は全身で風を受け止めながら、目蓋を閉じる。
「空を飛んでいる間、私は何からも自由で、たぶん、少しだけ寂しいんだ。だから、いつもどこかで、繋がりを探している」
その言葉に、バーナビ―はハッと胸をつかれ、息を呑んだ。
彼はふいにこちらを振り返ると、向日葵のような満面の笑みを浮かべた。
「バーナビ―くん」
「はい」
「私はこの街が、本当に大好きなんだ。街を救ってくれてありがとう。そして、ありがとう!」
ためらいなく伸ばされた掌と彼の笑顔を見比べ、本当にかなわない、とバーナビ―は口許を小さくほころばせると、素直にその手を握り返した。
「――――ありがとうございます」
自分にしては、ひどく殊勝で素直な一言だった。
彼はそれを聞いて、くすくすと肩を竦めて笑った。
「おかしいな、私がお礼を言ったはずなのに、お礼を言われてしまったよ。……そういえば、君はどうしてこんなところに?」
今さら気づいたようにそんなことを言い出すので、バーナビ―は呆れてため息を吐いた。
「お見舞いですよ」
「おや?ワイルドくんたちは、病室にいなかったかい?」
「………逆ですよ。あなたが病室にいなかったんじゃないですか。それとも、僕があなたのお見舞いをするのはおかしいですか?」
あまりに彼が当たり前のように不思議がるのが面白くなくて、つい拗ねたような物言いになった。
しまった子ども染みたことをした、とすぐに後悔に苛まれたが、バーナビ―のそんな気まずささえ、彼の笑顔の前では何の意味も持たなかった。
「いいや……いいや、ちっとも!」
こぼれるような微笑みが、青空の下できらきらと音を立てて瞬くようだった。
嬉しいという気持ちをこれだけ前面に出されては、もはやなす術もない。
「それじゃあ、一緒に病室に戻ろうか。そして、そのフルーツは病室にいる皆でいただくことにしよう!」
「ちょ……っ、待ってください!」
握りしめていた手をそのままに、けが人とは思えない颯爽とした足取りで、彼はバーナビ―の先に立って屋上を横切って行く。
まさかこのまま病院の中を歩くつもりではないだろうな、と血相を変えるバーナビ―の声が届いているのかいないのか、彼はいつになく上機嫌だった。

誰もいなくなった屋上で、彼の立っていた場所に、小さなつむじ風が巻き起こり、ほどけるように空へ消えていった。
その先には、新しい日を迎えたシュテルンビルドの街が広がっていた。
作品名:空と兎 作家名:あらた