愛を乞う
正確に言うと、視界が拓けた。
本当に世界が変わったようだった。
同じものを見ているはずなのに、全く違って見えて、それこそ世界の明るさまでも変わっていた。
見るもの全てが楽しくて、やる事全てが新鮮。
ずっと両親の仇というフィルターを通してみていた世界に、バーナビーは今裸で放り出されたようなものだ。
いや、子供の好奇心のままといった方がいいのか。とにかく世界がこんなに楽しく明るいものだったなんて知らなかった。
――否。知っていたのだ。知っていたけれど自分と関係ないものだと関心すら寄せなかった。
けれども今は楽しくて楽しくて仕方がなかった、この今自分の立っている世界が。
*****
「虎徹さん、何ですかこれ」
「味噌っていう……こないだ飲んだ味噌汁作る時にも使う奴。えーっと大豆を発酵させて作った調味料、舐めてみるか」
虎徹が味噌のついた指を差し出してみれば、素直にぺろりと舐めて、顔を顰める。
「しょっぱい……これからどうやってあんな味わい深い味噌汁が」
「折紙とおんなじこと言うなよバニーちゃん。今度作る時に見てればいいよ。あ、そういえばきゅうりあったな、きゅうり。もろきゅうにして食べるか」
最近頻繁に訪れるようになった虎徹のアパートメントでバーナビーは夕食の支度をする虎徹を見る為に台所にへばりついていた。
今は日本食の製作工程に興味をそそられているらしい。いい鯵が手に入ったから、と虎徹がそれを三枚におろしてみれば「ファンタスティック!」と手品師を見るような羨望の眼差しが送られてきた。
バニーが酢の味がちょっとまだ慣れないというので、鯵はなめろうにしている最中だ。それでも最初は生魚が殆ど食べられなかったバニーにしては凄い成長だ。
昔は食べられないものは食べ物ではないとばかりに頑なに口をつけなかったけれど、最近はまるで子供のように何でも関心を抱いて、食物に関してはとりあえず一口を試みている。勿論例に漏れず納豆にもチャレンジして撃沈してはいたが。
「なかった子供時代のやり直しなんだろうね」
しょうがを千切りにしながら思わず呟くと、バーナビーが何か言いました?と目の前で首を傾げてくる。
「いやいや。さてとバニーちゃん。冷蔵庫からネギ出して」
「わかりました」
指示すればきびきびと動いて手伝いもしてくれる。
変われば変わるもんだと、虎徹は概ね好意的にその変化を受け入れていた。
*****
今まで存在意義にしていた目標が、思いのほか早く達成できて、バーナビーは戸惑った。最初の何日かはそれこそ達成感に溢れていたが、ふと気づいたのだ。
――これから、何をする為に生きればいい?――
酷く単純で、酷く難しい問題だった。
あんなに明るかったのに一気に暗くなってしまったバーナビーを回りは皆心配した。
バーナビー自身だって、どうすればいいか判らないのに、その時周りにいた人たちにどうにかできる事でもないし。悩んで悩んで答えの出ないまま最後の砦とばかりに、バディを組んでいる虎徹のお見舞いに行った。
そして雑談もそこそこに、今思っていることを全部打ち明けてみた。
最後まで俯きながら喋って、そして目の前を見てみると、心底呆れた顔の虎徹が頬杖をついていた。あ、この人真剣に相談に乗ってくれていない。
「僕は真剣に相談してるのに……!!」
そういいかけたら、最後まで言い切る前にぬっと腕が出てきて、額を指で思いっきり弾かれた。
抗議の視線を送ろうとしたら、今度は真剣な顔の虎徹がいた。
「バニーちゃんの職業はなんなの?」
「……ヒーローです」
「それじゃあヒーローのお仕事は?」
「……街の平和を守ること、です」
「……それが生きがいじゃ駄目なの?」
少なくとも俺は娘とヒーローであるってことだけで生きてるよ。
苦笑しながら今度は髪をかき混ぜられた。
「そうか……。それでいいんだ」
今までは目標達成の方法でしかなかったヒーローという職業。いつか助けた少女に言われた「ありがとう」を思い出した。
ぐちゃぐちゃになった髪を今度は直している虎徹を見る。この人はどんな時にも他人の命を守る、その一点のみに集中してぶれることなく生きている。
「まぁバニーちゃんがこれから見つければいいんだと思うよ。好きな事も、好きな人も」
二十年という月日は決して短いものではない。親に甘えるとか友達と遊ぶとか、思春期で好きな人に悩むとか、そういったセオリーを全て封印して育ってきたバーナビーにとって、世界は新しい事に満ちていた。
甘える両親はもういないけれど、愛することはまだ怖いけれど。
少なくとも、目の前で笑う人だけは信頼できる。背中を預けられる。
人に身体を預けることの心地よさを、少なくともバーナビーは目の前の虎徹に教えてもらった。
新しい世界に放り出されたバーナビーに手を差し伸べて、立たせてくれたのは間違いなく虎徹だった。
父のように、兄のように、虎徹はバーナビーに乞われれば、機嫌よく相手をしてくれている。
でも、虎徹は家族でもないし、友達でもない。
仕事のバディ。同僚。それだけの関係だ。
一緒にいれば、楽しいし、嬉しい。
それなのに、胸には時折ろうそくの火の先で炙るようなチリチリといた痛みを感じている。
虎徹に聞いてはいけないような気がしたその不思議な感覚にバーナビーは戸惑っていた。
けれども、途方に暮れるような戸惑いではない。
もうすこし、この不思議な感覚を自分だけのものにしておきたかった。
――新しく世間に生まれた青年が、想いを自覚するまであと少し。
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続きそう?続くかもしれないのでとりあえずシリーズ立ち上げだけしておきました。
虎徹信者のバニーちゃんを見てふとおもいついた話。