小さな夜なら
そしていとも簡単に発見された異常は。
「ん……」
サロンの豪奢なソファの上、長い脚を惜しげもなく投げ出してしどけなく寝そべる青年ことアロイス・トランシー、執事のご主人様がひとり。あくまでも狸寝入りだったらしく、クロードが近寄るやいなや目を開けた。それまではただの穏やかな寝顔だった場所に不満げな表情が浮かべられる。
「クロード、おそい」
「……あとのことはハンナに任せておいたはずですが」
「おそい」
パーティは勿論成功だった。華やかな場と華やかな場にいる己が大好きな主人と付き添う完璧な執事によるもてなしは一部では評判にすらなっているらしい。もっとも存外繊細な主人のほうは好きは好きでも加減をわきまえずに限界ぎりぎりまで神経を消耗させてしまい、見送りが終われば身体を清める時間もそこそこにベッドに潜り込むのが常だった。だから寝顔でも神経を昂らせすぎて眠れなくなった不機嫌な顔でも、クロードは寝室で見る心づもりをしていたのだが。
その間にもアロイスはクロードから目を外しソファの上で落ち着かなさげに何度も姿勢を変えた。目を外していることを否応なしに意識させられるような視線のずらし方だった。とはいえ、沈黙により親しんでいるのはクロードの側である。二三分もすると、結局アロイスのほうから折れた。先程まではただ眠たげなだけだった声に今ははっきりと拗ねた色を混ぜて、
「まったく、俺の執事はいつになったら命令する前に動くようになるんだろうね」
「お言葉ですが、旦那様にははっきりとおっしゃっていただいたほうがご満足いただけるかと」
「分かってないなあ、クロード」
「は?」
「それじゃあお仕置きする楽しみがなくなっちゃうだろう?」
言うなり楽しげに身を起こしたが、すぐにばたん、と再び倒れてしまう。
「ああ、だめだ」
「いかがなされましたか」
「燃料切れ。クロード。抱っこして、運んで」
返事の前に一瞬だけ動きを止めた。
毎日見ているものの変わり様を意識することは難しい。どれだけの変化が訪れたかを推し量ることはなおさらだ。記憶の問題ではない。クロードは主人の日々を全てきちんと記憶している。しかしアロイスの一言で、そのときはじめて変化の存在が思い出された。抱き上げた小さな身体が理不尽なほど脆く感じられたことが思い出された。羽根のように軽いそれをどうやって落とさずに運ぼうかと密かに逡巡したことが思い出された。
一秒にも満たない思索だったが、これを見逃すようなアロイスではない。背中に左手を添え膝裏に右手を差し入れるやいなや首に回された両腕の締め付けるような動きで、立ち上がる前ににんまり顔が近づいた。
「クロード」
「はい」
「ね、いま動揺したでしょ」
「旦那様がご覧になった通りかと」
「じゃ、ちっちゃい俺のこと思い出した?」
「少しは」
「少し?もっと思い出してもいいけど?」
返事はしないで歩き出した。
悪魔の力にとってはやはり軽すぎるほどだったけれど、持ち上げる、という言葉が使えるだけの重みはあった。そして手足の長さ。胸のあたりに預けられることの多かった頭が今はすぐ目の前にある。身長が伸びたとは言ってもクロードには少し及ばないままだったから、これはこれで新鮮な眺めだった。
「そういえばさ、今日、聞いちゃったんだ。ええとあれは確か、ド・ラ……ドラン……」
「ド・ランベール子爵では」
「ああ、うん。そのご夫人のほう。伯爵夫人が言ってたんだけど、アロイス・トランシー伯爵の美貌はいまや背筋が凍るほどだってさ。その上会うたびに磨きがかかっているらしいとか」
「私はいつか、女にしてみたいような顔だとお伺いしました」
「へえ、それはそれは。要するに押し倒したいってことか。その点、あのクソじじいはよかったな。欲望だけは隠そうともしなかった」
最後は呟くようにして、自分から口を噤んだ。しがみつく指の力が強くなる。そのうち寝室の前にたどりついたが、首をゆっくり横に振るのでそのまま廊下をぐるぐると堂々周りした。
「……これ、意外に高いね。少しひやひやする。中途半端な高さだからかな」
やがて再び口を開いたときにはもう、いつも通りの快活さが戻っていた。
「落としはしません」
「うん、知ってる」
すぐ側でにっこり微笑んだかと思いきや、ふああ、とあくびが漏れた。片方の腕が目をこするために使われれば、いくらサイズが違うとはいえこどもっぽく見えてしまう。それを知ってかしらずか、それこそこどもに返ったかのようにクロードの肩にことんと頭を預けた。
「もういいよ、クロード」
「浴室に参りましょうか?」
「明日の、朝にするー……」
伸ばされた語尾のあとはもう、静かな吐息だけが残された。
寝室までは最短距離を取った。ベッドに横たわらせたのち、すこし苦労しながら寝間着に着替えさせる。思えば意識のない身体の世話をするのも久方ぶりだった。
けれどやがてそれも終わり、クロードは自分が持ち去るぶん以外のろうそくを吹き消した。水差しが満たされているのを確認する。ドアノブに手をかけたとき、ふと振り返ってもう一度顔を見たい衝動に襲われる。
実際にそうする前に、
「クロード」
振り返らなかった。
「はい」
少しも眠たくなさそうな声はそれ以上は続かず、ようやく呪縛が解けたころにクロードは踵を返しベッド脇に歩み寄った。先程の声が幻に思われるほど穏やかな寝顔の上に身をかがめる。唇に触れた瞬間、髪の中に手が差し入れられた。青い炎がふたつ闇の中に灯った。
永遠とも思われるだけの時間が過ぎる。起こした上半身の下で、主人が口端を吊り上げる。
「やればできるじゃないか」
返事が見つからないであいまいに頷くと、アロイスが声をたてて笑った。クロードに背中を向けるようにして身体を丸める。
「おやすみ、クロード」
「……おやすみなさいませ」
今度こそ悪魔の執事は足を止めたりはせずに滑るように絨毯の上を歩き、悪魔だけが知っている秘密の方法で音をたてずに扉を閉めた。