なもなきひととき
暖かな日差しを受けて、揺れる白と黒の羽扇。
つい今しがたまで水没していたそれは、どうにか救出されて天日干しの真っ最中だ。
「全く、何が悲しくて貴様と濡れ鼠にならねばならんのだっ」
「流石に本件は不可抗力ですよ……?」
期せずして鉢合わせた二人を、突然に襲った砂嵐。風は二人の手から羽扇を奪い、近くにあった泉に放り込んだのだ。叩きつけられた砂を払い、ふと見てみれば今にも沈まんとする羽扇が二つ。どちらからともなく走り出し、深さも確認せずに羽扇を取りに行って……二人とも、腰まで水没してしまったのだ。
それだけならばまだいいが、水底の石につまづいてみたり苔に滑ってみたりして、二人とも頭まで水を被った。いくら季節が夏に差し掛かっているとはいえ、まだ水遊びを楽しめるほどの気温も水温もなく、またこの場にそんな雰囲気は無かったわけで。
「しかしまぁ、砂まみれになった後ですから、すっきりはしましたね」
「……その前向きな思考回路は称賛に値するな……」
水を吸って重くなった服は横に張り出した木の幹にかけ、こちらも乾燥待ち。司馬懿も諸葛亮も、流石に全裸になるわけにはいかず、濡れたままの下着だけを纏った格好だ。
「それに、羽扇が落ちた先がこんなに澄んだ泉で助かりました。これが濁り澱んだ池だったりしたら……」
司馬懿の脳内に、どどめ色をした沼に突き刺さるようにして沈んでいく羽扇の姿が浮かび上がる。ああ、何とおぞましい光景か。
「……とてもではないが、取りに行く勇気は出んな」
「もし取りに行こうものなら、濡れ鼠から溝鼠に昇格です」
「むしろ落ちていないか、それは」
諸葛亮が笑う。楽しげに細められた目を見て、司馬懿はふと『なんて時間だ』と思った。
直接刃を交えたことはないにしても、自分達は敵対する関係だ。いずれ、近い内にその知謀をかけ……命を懸ける戦いをせねばならない。そんな立場にある二人が、こんな日の高い時間にずぶ濡れの下着姿で地べたに座り談笑している……こんな、穏やかな時間。
もう、二度と、こんな時はやってこないだろう。運命の悪戯などという陳腐な言葉すらも説得力を持ちかねない、この心地よい時間は。
「いずれにせよ、私たちは運がいいのです」
諸葛亮が空を見上げる。雲は殆どなく、どこまでも青空が続いている。さんさんと降り注ぐ日光が、服を乾かすのも時間の問題だった。
「本当に運がいいのなら、羽扇が飛ばされることもなかろうが。馬鹿めが」
脳天期な発言にやや棘のある言葉を返すと、相手は笑みを崩さぬままにさらりと言い放った。
「いえ、貴方とこうしてゆっくりお話をすることができましたから、幸運です」
一瞬、何を言われているのか解らなかった。何やら妙にくすぐったい、歯の浮くようなことを言われた気がした。
「司馬懿殿、日陰へ移動しませんか?このままでは、服が乾く前に私たちが干物になってしまいます」
「ん!?あ、ああ……」
先の言葉を理解する前に出された提案には適当に答え、司馬懿は促されるがまま立ち上がり諸葛亮の後をついていった。
この後、どんな話をしたか……彼はあまり覚えていない。脳裏を支配する、あの言葉が司馬懿の思考を掌握し、放してくれなかったのだ。
いつの間にか服が乾いていて、自分の髪も下着もすっかり軽くなっていた。互いに背を向けて服を着、少し離れた場所に繋いでおいた馬に跨る。それでもなお、司馬懿の脳内はかの言葉でいっぱいだった。
最早、何故その言葉にここまで拘っているのか、解らなくなるほどに。
「では司馬懿殿、道中お気をつけて」
「……む。貴様もな」
馬の腹を軽く蹴り、諸葛亮は司馬懿に背を向け馬を歩かせ始める。別れの言葉も告げたのだ、敵国の軍師とこれ以上対話する内容もない。
はず、なのに。
「……!ま、待て諸葛亮!!」
ふいに視界を掠めた白い物体に気付いた司馬懿は、思わず大声を出していた。呼び声に驚いたか、馬の嘶きが聞こえてくる。呼ばれた相手は、目を丸めながら馬を宥めていた。
「ど、どうなさいました?司馬懿殿……あ」
気遣う声色の最後は、妙に間の抜けた言葉だった。司馬懿が手にしていたもの……それは、諸葛亮愛用の羽扇。乾かす為に干しておいたまま、立ち去ろうとしていたのだ。
「泳いでまで取り戻したものを置いていく気か、貴様は」
自らの失態に苦笑する諸葛亮の隣へ、司馬懿は馬を歩かせる。そして羽扇を差し出したが、諸葛亮は受け取ろうとしない。
「?」
何を惑う必要があるのかと小首を傾げていると、相手はさもいいことを思いついた子供の顔でこう言い放った。
「交換しませんか?羽扇」
「はぁ?」
あまりに突拍子もない申し出に、なんとも間抜けな声が出てしまった。だが相手は気にも留めず、相手の返答を待っている。
「な、何故こ、交換などせねばならんのだ」
質問に質問で返しても、相手の笑みは変わらない。
「今日という日の記念に、ですよ。きっと、こんな日はもうありませんから」
語尾が、曇った気がした。その噛みしめるような言葉に、司馬懿はちくりとした痛みを確かに感じた。
(何故?)
痛みの理由が解らず、司馬懿は視線を泳がせる。なかなか返事を出さない相手の前で、諸葛亮はただ微笑んでいた。
「あぁ、でも……貴方の羽扇と私の羽扇では、等価とは参りませんか……」
「い、いや、そういう事を気にしているのでは、なくてな……」
諸葛亮の声がまた憂いを抱いたように聞こえた。そしてそれに対する司馬懿の返答は、口にした本人を更に混乱させる。
(では、何を?)
自分で自分が解らない。何故こんなにも、自分は混乱しているのだろうか。一体、何に対して悩んでいるのかさえ解らない。
「ぬ、ま、まぁいい。そら、くれてやる」
今すぐに答えを導き出すのは難しい……そう判断し、いい断りの言葉も見つからなかった司馬懿は黒と紫の羽を飾った羽扇を諸葛亮へと差し出した。
「よろしいのですか?有難うございます」
相手はそれを嬉々として受け取り、軽く振ってみたり構えてみたりと、文字通りはしゃいでいた。たった二つ年下の男が、羽扇一つでここまで浮かれる様というのは実に滑稽で、司馬懿は体の力が抜けていくのを感じていた。必死に気を張っていた自分が、馬鹿らしくなったのだ。
『嗚呼。本当に、何という一時だろう』
形容し難い胸中に気付いているのかいないのか、諸葛亮は飽きもせず贈られた羽扇を愛でている。代わりに手元に残された純白の羽扇に目を落とし、司馬懿はそっとその白い羽を撫でた。
「おっと、浮かれている場合ではないですね。では司馬懿殿、これにて失礼いたします」
心行くまで楽しんだか、諸葛亮が唐突に我に返った。反射的に顔を上げた司馬懿は、やや間があってからぎこちなく頷く。
「あ、ああ。そ、うだな。うむ、これは貰っておく」
やや会話が噛み合っていなかったが、諸葛亮は特に指摘することなく微笑んでいた。
「羽扇、大切にしますね」
「ふん、蜀ではそこまでの逸品はそう手に入るまい。せいぜい、贅沢気分を味わうがいい」
嫌み混じりの言葉に、諸葛亮は受け取ったばかりの羽扇で口元を隠しくすりと笑った。
「では」
「む」
互いに馬の腹を蹴り、背中合わせに去っていく。もう、振り向きもしないし声をかけることもない。
つい今しがたまで水没していたそれは、どうにか救出されて天日干しの真っ最中だ。
「全く、何が悲しくて貴様と濡れ鼠にならねばならんのだっ」
「流石に本件は不可抗力ですよ……?」
期せずして鉢合わせた二人を、突然に襲った砂嵐。風は二人の手から羽扇を奪い、近くにあった泉に放り込んだのだ。叩きつけられた砂を払い、ふと見てみれば今にも沈まんとする羽扇が二つ。どちらからともなく走り出し、深さも確認せずに羽扇を取りに行って……二人とも、腰まで水没してしまったのだ。
それだけならばまだいいが、水底の石につまづいてみたり苔に滑ってみたりして、二人とも頭まで水を被った。いくら季節が夏に差し掛かっているとはいえ、まだ水遊びを楽しめるほどの気温も水温もなく、またこの場にそんな雰囲気は無かったわけで。
「しかしまぁ、砂まみれになった後ですから、すっきりはしましたね」
「……その前向きな思考回路は称賛に値するな……」
水を吸って重くなった服は横に張り出した木の幹にかけ、こちらも乾燥待ち。司馬懿も諸葛亮も、流石に全裸になるわけにはいかず、濡れたままの下着だけを纏った格好だ。
「それに、羽扇が落ちた先がこんなに澄んだ泉で助かりました。これが濁り澱んだ池だったりしたら……」
司馬懿の脳内に、どどめ色をした沼に突き刺さるようにして沈んでいく羽扇の姿が浮かび上がる。ああ、何とおぞましい光景か。
「……とてもではないが、取りに行く勇気は出んな」
「もし取りに行こうものなら、濡れ鼠から溝鼠に昇格です」
「むしろ落ちていないか、それは」
諸葛亮が笑う。楽しげに細められた目を見て、司馬懿はふと『なんて時間だ』と思った。
直接刃を交えたことはないにしても、自分達は敵対する関係だ。いずれ、近い内にその知謀をかけ……命を懸ける戦いをせねばならない。そんな立場にある二人が、こんな日の高い時間にずぶ濡れの下着姿で地べたに座り談笑している……こんな、穏やかな時間。
もう、二度と、こんな時はやってこないだろう。運命の悪戯などという陳腐な言葉すらも説得力を持ちかねない、この心地よい時間は。
「いずれにせよ、私たちは運がいいのです」
諸葛亮が空を見上げる。雲は殆どなく、どこまでも青空が続いている。さんさんと降り注ぐ日光が、服を乾かすのも時間の問題だった。
「本当に運がいいのなら、羽扇が飛ばされることもなかろうが。馬鹿めが」
脳天期な発言にやや棘のある言葉を返すと、相手は笑みを崩さぬままにさらりと言い放った。
「いえ、貴方とこうしてゆっくりお話をすることができましたから、幸運です」
一瞬、何を言われているのか解らなかった。何やら妙にくすぐったい、歯の浮くようなことを言われた気がした。
「司馬懿殿、日陰へ移動しませんか?このままでは、服が乾く前に私たちが干物になってしまいます」
「ん!?あ、ああ……」
先の言葉を理解する前に出された提案には適当に答え、司馬懿は促されるがまま立ち上がり諸葛亮の後をついていった。
この後、どんな話をしたか……彼はあまり覚えていない。脳裏を支配する、あの言葉が司馬懿の思考を掌握し、放してくれなかったのだ。
いつの間にか服が乾いていて、自分の髪も下着もすっかり軽くなっていた。互いに背を向けて服を着、少し離れた場所に繋いでおいた馬に跨る。それでもなお、司馬懿の脳内はかの言葉でいっぱいだった。
最早、何故その言葉にここまで拘っているのか、解らなくなるほどに。
「では司馬懿殿、道中お気をつけて」
「……む。貴様もな」
馬の腹を軽く蹴り、諸葛亮は司馬懿に背を向け馬を歩かせ始める。別れの言葉も告げたのだ、敵国の軍師とこれ以上対話する内容もない。
はず、なのに。
「……!ま、待て諸葛亮!!」
ふいに視界を掠めた白い物体に気付いた司馬懿は、思わず大声を出していた。呼び声に驚いたか、馬の嘶きが聞こえてくる。呼ばれた相手は、目を丸めながら馬を宥めていた。
「ど、どうなさいました?司馬懿殿……あ」
気遣う声色の最後は、妙に間の抜けた言葉だった。司馬懿が手にしていたもの……それは、諸葛亮愛用の羽扇。乾かす為に干しておいたまま、立ち去ろうとしていたのだ。
「泳いでまで取り戻したものを置いていく気か、貴様は」
自らの失態に苦笑する諸葛亮の隣へ、司馬懿は馬を歩かせる。そして羽扇を差し出したが、諸葛亮は受け取ろうとしない。
「?」
何を惑う必要があるのかと小首を傾げていると、相手はさもいいことを思いついた子供の顔でこう言い放った。
「交換しませんか?羽扇」
「はぁ?」
あまりに突拍子もない申し出に、なんとも間抜けな声が出てしまった。だが相手は気にも留めず、相手の返答を待っている。
「な、何故こ、交換などせねばならんのだ」
質問に質問で返しても、相手の笑みは変わらない。
「今日という日の記念に、ですよ。きっと、こんな日はもうありませんから」
語尾が、曇った気がした。その噛みしめるような言葉に、司馬懿はちくりとした痛みを確かに感じた。
(何故?)
痛みの理由が解らず、司馬懿は視線を泳がせる。なかなか返事を出さない相手の前で、諸葛亮はただ微笑んでいた。
「あぁ、でも……貴方の羽扇と私の羽扇では、等価とは参りませんか……」
「い、いや、そういう事を気にしているのでは、なくてな……」
諸葛亮の声がまた憂いを抱いたように聞こえた。そしてそれに対する司馬懿の返答は、口にした本人を更に混乱させる。
(では、何を?)
自分で自分が解らない。何故こんなにも、自分は混乱しているのだろうか。一体、何に対して悩んでいるのかさえ解らない。
「ぬ、ま、まぁいい。そら、くれてやる」
今すぐに答えを導き出すのは難しい……そう判断し、いい断りの言葉も見つからなかった司馬懿は黒と紫の羽を飾った羽扇を諸葛亮へと差し出した。
「よろしいのですか?有難うございます」
相手はそれを嬉々として受け取り、軽く振ってみたり構えてみたりと、文字通りはしゃいでいた。たった二つ年下の男が、羽扇一つでここまで浮かれる様というのは実に滑稽で、司馬懿は体の力が抜けていくのを感じていた。必死に気を張っていた自分が、馬鹿らしくなったのだ。
『嗚呼。本当に、何という一時だろう』
形容し難い胸中に気付いているのかいないのか、諸葛亮は飽きもせず贈られた羽扇を愛でている。代わりに手元に残された純白の羽扇に目を落とし、司馬懿はそっとその白い羽を撫でた。
「おっと、浮かれている場合ではないですね。では司馬懿殿、これにて失礼いたします」
心行くまで楽しんだか、諸葛亮が唐突に我に返った。反射的に顔を上げた司馬懿は、やや間があってからぎこちなく頷く。
「あ、ああ。そ、うだな。うむ、これは貰っておく」
やや会話が噛み合っていなかったが、諸葛亮は特に指摘することなく微笑んでいた。
「羽扇、大切にしますね」
「ふん、蜀ではそこまでの逸品はそう手に入るまい。せいぜい、贅沢気分を味わうがいい」
嫌み混じりの言葉に、諸葛亮は受け取ったばかりの羽扇で口元を隠しくすりと笑った。
「では」
「む」
互いに馬の腹を蹴り、背中合わせに去っていく。もう、振り向きもしないし声をかけることもない。