目を閉じておいでよ・前
教科書の解説を指していた指が視界から消えたと思ったら、自分の髪に触れている。鬼道らしからぬ距離感、と感じた瞬間、自分たちの関係の劇的な変化を思い出し、源田は何も言えなくなった。
つい昨日、まだ24時間も経過していない。源田は鬼道と所謂「お付き合い」をすることになった。改めて言葉にまとめるといっそ滑稽とも思えるが、源田は源田なりに鬼道に対し真摯な想いをずっと抱いていたのだ。しかし思わず口にしたその気持ちが、二人の関係を恋人同士というものに変化させたことは全くの計算外ではあった。
源田はただ、誰よりも鬼道の傍で、鬼道を支えられるような存在になりたいと思っていた。本当は誰にも見せるつもりなどなく、見せたくはなかっただろう昨日の鬼道の顔を見て、源田はそうした自分の気持ちを全てさらけ出し、自分が何か鬼道にとって使い道があるならどうとでも使ってくれて構わない、という意味で「鬼道、俺はお前が好きだ」と思わず口にした。
鬼道に源田の意図したところが伝わったのかどうかは解らない。語彙が乏しい自覚も充分過ぎるほどあるし、第一タイミングとしては最悪だった。それでも、ゴーグルを外し、見慣れない上に似合わない腫らした目を見開いた鬼道が、苦笑とはいえ、笑みを見せたことが、その時の源田には何より嬉しいことだった。
だから、考えてもみなかったのだ。
「好きだ」と告げたことで、互いの身体で友人とはしないようなことをする事態が起こるなんて。
「きど……っ、んっ……」
髪に伸ばされた手がそのまま上がり、耳の後ろから首筋へ。ゆっくりと髪を梳きながら鬼道は机越し向かい合った源田を引き寄せ、その唇で源田の呼吸を塞いでいる。
目を閉じる暇もなく距離を狭める鬼道の顔を注視したままキスをされている源田は、ゴーグルの中伏せられた鬼道の、思いの外繊細なまつげに耳が熱くなるのを感じる。柔らかな舌先が上唇を持ち上げ、そっと侵入してきた拍子に、粘膜どうしが濡れた音を立てる。微かではあったが確かにその音は源田の耳にも入り、ゆるゆるとそこを撫で続ける鬼道の指には、あからさまに上がっている熱が全て伝わっているのでは、といたたまれない気持ちになった。
「源田、目くらい閉じろ」
昨日と同じ、苦笑めいた笑顔で、二人の唇をつなぐ唾液の糸を舐め取りながら鬼道が囁く。その少しだけ紅潮した頬と僅かに乱れた吐息に安堵しながら、源田は首を振った。こんな時に、目を閉じたら何が起きるか解らなくて怖い、などという複雑な事情を説明など出来ない。鬼道の何処か手慣れたような様子が怖かった。鬼道の気が済むならどんなことでも、という想いに変わりはないが、手放しで預けるには源田のこうした方面への知識は大層お粗末なものである。
「嫌だ、ということか?」
「違う、目を、閉じるのが……」
「そう見られると、俺も恥ずかしいんだが」
言いながら、こんどはまぶたに唇を落とされた。シャープペンシルを握っていた右手を探り当てられ、開かされ、そっと握られる。指の間を縫うように組み合わされた鬼道の手のひらは温かく、いくらか汗が滲んでいる。そのことに、鬼道の言葉の信憑性を裏打ちされたような気持ちで、源田はその、自分のものより幾ばくか華奢な手を握り返した。勢いや強さを調節できる余裕などもうなかった。
「努力は、する。だから……」
もう一度、と口にする時間はまた与えられず、再び唇に吸い付かれる。一度目のような穏やかさ、源田の反応を窺うような気配は何処にもない。歯があたるほど深く、強く引き寄せられ、強引に舌を含まされて掻き回される。自分の舌のかたちを思い知らされるように、ぬめる唾液を介在させながら絡められる鬼道の舌に源田は為す術もないが、一方で安心もしていた。
いい。これならいい。
目を閉じても怖くない。
怖いのは、鬼道の真意が見えないことなのだ。勿論、鬼道は本当の意味での真意など源田に見せはしない。それは解っている。だがそれでも、今この一瞬だけでも、なんらかの欲を本当に源田に向けてくれるなら、もう恐怖は感じない。
「源田、お前は、俺とこんなことをしたいと思っていた訳じゃないだろう」
「……?」
「だが、済まない、俺は」
唇が離れると共に囁く鬼道の声を、今度は固く閉じたまぶたを羞恥と困惑でとても開けられずにいる源田はほとんど夢うつつで聞いていた。何故謝るのか。鬼道に求められることが心地よくて、鬼道の言葉の意味がとれない。
「……すきにしてくれたら、それが俺のしたいことだ」
伝わるだろうか。上手い言葉、解りやすい言葉など普段から下手くそなのに、今みたいに何も考えられなくなっている時は余計にひどい有様だろう。だから足りない分は行動で補うべく、源田は言うなり鬼道の唇に自分の唇をぶつけた。昨日までは考えてもみなかったけれど、目を閉じても鬼道が連れて行ってくれるなら、こんな行為だってすぐに慣れる。事実もう、たった二度のキスに自分は夢中になって、考え事すらままならない。鬼道が謝ることなど何もないのだ。
「……本当に、お前は」
「鬼道、ほんとうだ、お前が望むなら」
「何をされてもいい、なんて言ったら、今の俺は何をするか解らないぞ」
言おうと思ったことを先回りされ困ってしまう。目を開けて見る鬼道の表情は見たこともないものだ。余裕の笑顔でも、昨日から何度か目にした苦笑でもない。あらわな耳まで赤く染め、硬く握った源田の手に視線を落として何かに耐えるような鬼道を見ていたくなくて、源田は握られた手をそのままに椅子から立ち上がり、鬼道の座っている側に回って、見上げた鬼道に抱きついた。
「俺にならいい、うれしい」
「源田……」
昨日、鬼道は好きだと告げた源田に「じゃあ、俺の恋人になってくれるとでも言うのか」と答えた。そしてそれに「そのことがお前にとっていいことなら」と返した源田に「じゃあお付き合いしていただきましょうか」と苦笑した、その流れが今はこんなことになっている。
友人と恋人の境界線など、源田に解るはずもない。その意味すらも明確に把握してはいないが、鬼道にとっては何らか意味のある格付けなのだということは理解できた。鬼道が望み、それで自分の気持ちを信じてもらえるならば、源田に否やはない。気持ちに付けられる名前はどうでもよかった。
「俺は、どうしても証拠を求めずにいられない」
「……証拠?」
「お前の気持ちを、形にしないと信じられないなんて」
言いながら手を腰に回され、強く抱き返された。かがんだ肩の辺り、押し当てられた鬼道の頭と、二人の身体の隙間にこもる吐息が熱い。
「俺も、俺だってお前が好きだ。お前といると息が出来る。そのことだけで充分だったはずなのに」
済まない。お前を試した。
暗い声音が上から降ってくる。どういった手を使ったものか、さして衝撃を感じることもなく、源田は壁に寄せて配置されている、学生寮の大きくはないベッドに押し倒されていた。
作品名:目を閉じておいでよ・前 作家名:タロウ