目には目を
桃です、と控え目な声がかかった。
「ピーチ?」
「日本の」
一旦台所に引っ込んでいた声の主――イワンは、その手に持つ白いいびつな球形を少し掲げてみせる。切り分けるのが面倒になったのか、自分用には皮を剥いただけで持って来たらしい。ところどころピンクで彩られた果肉を眺め、キースはもう一度首を傾げた。
桃などたまに瓶詰めのシロップ漬けを買うぐらいだが、色からして全く違う果物のようだ。
言われてみれば、ふわりと昇る香りには覚えがあるようなないような。
「通販でよく使うショップが送ってくれたんです」
「通販?」
「あの……手裏剣とかの」
「ああ! それで日本か」
「はい」
聞けば彼がヒーローになる以前から憧れていた、ショップというより伝統ある老舗であるらしい。コツコツと貯めた収入ではじめて注文を入れるとき、感極まって同封した長い手紙をきっかけに、店主とは数年来ほそぼそとした交流が続いているのだと言う。
「前から欲しかったマイスターのカタナが先日届いたんです。そのショップが扱っているものの中では安い方なんですが、僕、舞い上がってしまって……お礼の手紙を送ったら、喜んでもらえて嬉しいって返事と一緒にこれが」
生鮮品の国際便規制は緩和されつつあるが、それでも手続きは煩雑だし金額もかかる。
少なくとも裏庭の林檎を隣家に持っていくようなわけにはいかないだろうから、太平洋を越えたところに住んでいる人がその数カ月単位での遣り取りをどれほど愛しく思っているか知れようというものだ。
勧められるまま盛られた果肉を口に運び歯を立てる。想像以上の柔らかさに驚く間もなく冷えた果汁と芳香が溢れ出た。濃厚でありながら少しもしつこさのない甘みに目をみはると、緊張したような顔でキースを伺っていたイワンがにこりと笑う。
「……とてもおいしい、とても!」
「でしょう? センターに持っていくほどの数ではなかったんですけど、一人で全部食べてしまうのは勿体無くて」
珍しく熱心に自宅へ誘われたと思ったら、どうやら珍しい届け物のお裾分けが目的であったらしい。はじめて口にする白い桃の味も勿論だが、そこで自分の顔を真っ先に思い出してくれた事実がキースには単純に嬉しくて口角が上がった。
こんなささやかな特別扱いにいちいち自己主張する心臓を、我ながら新鮮に感じる。
能力の発現以来、良くも悪くも『特別』であることには慣れてしまったつもりでいたが、近頃はこんなことがやけに多い。
「スカ……キース、さんが、気に入ってくれたならその……よかったです」
――多い上、往々にして予想もしない形で不意を打たれるものだから大変に困る。
未だ呼び慣れない方の名前を呟いて、仄かに頬を染め手にした果実に齧りつく姿に何切れ目かの桃を碌に味わえないまま嚥下しながらキースは思った。
聞こえるかどうかの大きさに音量を絞るということはつまり、その声が孕む吐息の割合を大幅に増やすということとイコールであって。
ジャケットを脱いで剥き出しの肩や腕、華奢な果物を慎重に扱う手指も、間違いようもなく男のそれであるのに。
顔立ちにしても女性らしいところなどほとんどないのに、菫色の視線を頼りなく逸らして彷徨わせるイワンの横顔から目を離せないでいると、ふと腕を伸ばし思い切り抱きしめてしまいたいという衝動ばかりが強くなるから、困る。
湿った音を立て、歯並びの良い口が皮を剥いただけの桃から果肉を削り取る。
唇を濡らす蜜を舐めとり、咀嚼する。彼の喉が小さく上下したところでついに自分の理性が音を立てて崩れかける気配を感じ、キースは慌てて目の前の器へ意識を摺り替えた……少なくとも、そうしようとはしたのだと強く主張する。
「うわ、っ」
「……!?」
キースが気を取り直して銀色のフォークを自分の器に向けるのと、イワンがもう一口食べ進めた果物が不意に水分を溢れさせたのと、どちらが先で後だったか。
手首から肘の方まで伝う透明な液体を、咄嗟に舐めとった彼に罪は多分なかった。
ただこの瞬間、くらりと、目眩が。
服にもテーブルにも被害がなかったことを確かめて青年は安堵の息を吐く。
身を乗り出してその手首を掴み、引き寄せてキースはまだ彼が口をつけていない側の瑞々しい白さに噛み付いた。驚きに見開かれる菫色の両目を視界に収めながら、じわりと滲み、彼の指を汚す果汁に殊更ゆっくりと舌を這わせた。
押し殺したように喉を鳴らして痙攣する指先、温い甘み。
「なっ、なん……キース、……っ」
「うん?」
一瞬で首筋まで赤くしたイワンが自分の手首を取り返そうと弱々しくもがくのに、人が食べているものは自分のより美味しそうに見えるよね、笑って言うと、あなたばっかりずるいと恨めしそうに睨まれた。
「……あなたは僕にくれないんですか?」
「え」
ごちそうさまと放した手を、戻す前に今度は捕らわれて。
思い切り良く引っ張られ、テーブルに乗り出していた上体が均衡を崩してつんのめる。
急に薄暗くなったと思ったら、わ、の形に開いた唇を薄い舌がぺろりと舐めて音を立て、
「ごちそうさまです」
これでおあいこ、三日月形に弧を描いた。
【An eye for an eye, a tooth for a tooth. 】