夜の鏡
場所は忘れた。まだ慣れない戦場で疲れ切っていたはずなのに、なぜか眠れなくて、ふらふらと気の赴くままに任せて寝所を後にした。
澄んだ夜の空気を深く吸うと、ざわついていた胸の奥が静まっていくような気がした。けれどいくらも経たないうちにまた元に戻る。それをいくつか繰り返して、とうとう諦めて重い息を吐いたときだった。
「星彩?」
顔を上げると、小高い丘とも呼べないその場所に趙雲殿が座り込んでいた。いつも丁寧に結っている黒髪は、今は解かれて夜風に揺れている。
立ち止まった私に向かって、おいでおいでをするように手を振っている。
私は迷わず、緩やかな傾斜に足をかけた。
「眠れないのか?」
「…はい」
私は趙雲殿の隣に、膝を抱えて座り込んだ。趙雲殿は片膝を立てて胡坐をかいている。
趙雲殿はそうか、と目を細めて笑っただけで、他には理由を聞かない。それがありがたかった。自分でも分からないのに、聞かれても余計に困ってしまうだけだった。
「見てごらん、星彩」
趙雲殿が指さすほうを見る。
まるで地上にもう一つ星空が広がっているみたいだった。
そこまで広い湖ではないが、澄みきった真っ黒な湖面を、色鮮やかにきらきらと彩る星々。夜空の鏡。
「きれい…」
思わず呟いた私に、趙雲殿は柔らかな微笑を向けた。
「お前の名前と同じだろう」
唐突に趙雲殿が立ち上がり、湖面に手を伸ばす。衣の袖が濡れるのも構わず右腕を半ばまで突っ込んで、水を掬って、零す。掬って、また零す。まるで幼い子供が初めて水に触れたときのような遊び。飛沫が静かに揺れるだけだった湖面に波紋を作る。映し鏡の星が砕けて散る。戻る。散る。やがて気が済んだのか、趙雲殿がおもむろに手を引く。幾度か振って、飛沫がまた星を散らす。湖面が静まるのを見届けてから、趙雲殿が口を開いた。
「本当は、飛びこんでしまおうかと思っていたんだけど、星彩が来たからやめる」
「お邪魔でしたか」
「いいや、逆。意外と冷えてきたし、風邪をひく危険を冒さず済んだよ」
明日もまだ残っているしな。
最後の呟きは何と言ったのか聞こえなくて、聞き返そうとすると、大したことではないよと笑って流されてしまった。趙雲殿の顔が妙に晴れ晴れとしていたから、私もそれ以上追及するのをやめた。
「送っていくよ、星彩。そろそろ眠らなければ身体に差し支える」
「私、一人でも」
「だめ」
にっこりと趙雲殿が笑う。こういうときの趙雲殿は絶対引かない。私は食い下がろうとして、やめた。
送ると言い出しておいて、先に歩き出す趙雲殿の背を慌てて追いかける。追いかけるついでに濡れているほうの袖を掴む。趙雲殿は目を一つ瞬いて、そっちでいいのか?と聞いた。私は頷いた。
濡れて、冷えた向こうに趙雲殿の体温が感じられて、私はなぜだか嬉しくなった。その時明確にその感情を捉えられたわけではないのだけれど、後から考えるとやはりあの時湧きあがってきた思いに、名前を当て嵌まるとしたら「喜び」だった。
もう朝まであまり時間はない。けれど、よく眠れそうな気がした。
よく晴れた、星空の夜だった。