柔らかそうな唇
階段を段飛ばしに駆け上がりながら、幾度目かの角を曲がり、最奥へと辿り着いた。フッチの部屋だ。
彼は今朝、短期の任務から帰還したはずだ。数日逢えなかっただけでこんなにも想いは募るものだったろうか、とシャロンはくすぐったい気分で口元を綻ばせた。土産に期待しているという本音は隅に置いて。
いつもならばそのまま駆け入るところだが、たまには、とノックをして声を掛ける。
返事はない。
先ほどまでの浮き足立った気分が急速に降下してゆく。ム、と眉をしかめ扉を乱暴に開け放った。
「ちょっとォ、返事くらいし」
なよ、と言い掛けて止まる。
そうっと扉を閉じ、足音を忍ばせて近寄った。
ベッドでは、部屋の主が穏やかな寝息を立てていた。
普段は一つにまとめている髪を枕へ流し、片腕を耳元に敷いて。
「フッチ? 寝てるの……?」
その横顔に近付き、囁くように問いかける。
規則正しい吐息を確認すると、シャロンは床に腰を下ろし、枕元に置いた手の上でことりと首を傾げた。
「……疲れてたのかな……」
少し寂しげに呟き、寝顔を見つめる。
空を翔ける焼けた肌、真っ直ぐな意思の強さを思わせる眉、やさしい眸は瞼と長い睫毛に伏せられている。
「キレーな顔」
ぽつりと零して、視線を横に移す。
半袖から覗く腕は太く筋肉に覆われている。そっと指で触れて感じたのは硬さ。この大きな腕で、竜騎士にあらざる大剣を、易々と振り回してみせるのだ。
そのまま指を滑らせ、手の甲へと辿り着く。何とはなしに自身の手を重ねた。
大きさも、太さも、形も違う、オトコノヒトの手。この手が触れるたび、温かい気持ちになった。ただただ穏やかだったその気持ちが、落ち着かないものに変わっていったのはいつだっただろうか。
そうして両手で頬杖をつき、再びその寝顔を見つめた。
(腕とか指は硬いのに)(くちびる、柔らかそう)
「ちゅー、したいな……」
(だめかな?)(怒られちゃう?)
そう、思ったけれど、そのくちびるに引かれるように顔を近付けた。吐息が触れ合う距離。とくとくと早鳴る心臓を抑えるように瞼を閉じた。鼻先が触れる。そして──
ちゅ、と微かな音を立てて触れたのは、指。フッチの太い指の腹が、シャロンのくちびるを遮っていた。
「──ちょ! お、起きてたんなら起きてるって、」
耳まで赤く染めて、シャロンは勢いよく顔を引いた。その姿を静かに見つめ、フッチは深い息を吐きながら、掠れた声を零す。
「そりゃあ、あれだけ凝視されれば嫌でも覚醒するよ……」
そうしてゆっくりと上体を起こし、額へと手を当て瞼を閉じた。
「──なんで、ジャマすんの」
未遂に終わったことで一層の羞恥を感じながら、横を向いたままくちびるを尖らせたシャロンが、不満げに問う。額に当てた手をそのままに、フッチは静かにシャロンへと視線を寄こし──同じようにふいと逸らした。
「くちびるへのキスは、本当に好きな人とするものだ」
だから大切にとっておきなさい、と低い声で囁く。それを聞いて目を見開いたシャロンは、立ち上がり、叫んだ。
「ボクはフッチが好きだもん!」
羞恥と少しの怒りで眸を潤ませ、もう一度「好きなんだもん……」と、小さく声を震わせた。
フッチは答えない。真っ直ぐに視線は絡むが、その表情は困ったように笑んでいるだけだった。
「なんで、なんにも言ってくんないの……」
やはり、答えは返らない。苦い笑みを浮かべたフッチの姿が滲む。
ハ、と息を吐いて、シャロンは零れ落ちそうになる涙を押し留めた。震える拳をきゅうと握り締める。
「もういいよ!!」
顔を上げくちびるを噛んで、堪えきれず一筋の涙を散らせた少女は、そう叫んで部屋を飛び出して行った。
フッチは俯いたまま──部屋には元の静けさだけが残った。
その顔の下で眉を強く歪めながら、しばらくののち、フッチは深く苦い息を吐き出した。
そうして指の腹をくちびるへとそっと当てる。少女の熱い吐息と柔らかなくちびるが触れた、指を。
どのくらいの間そうしていただろうか、フッチはその感触から逃れるように拳を握り、切なく眉を寄せ、眸を閉じた。瞼の裏に映る少女の涙に、やはり逃れるように頭を振って。