キミと手を繋ぐまで
茶色がかっている伊作の髪と違い、漆黒で直毛の髪。その向こうに見える横顔は、ここ数日の睡眠不足がたたってひどい顔色をしている。目の下の隈もいつもより濃い。
じっと文次郎の横顔を観察していると、医務室へと向かってくる足音が聞こえてきた。さきほどと違い、今度はすぐにこの足音の主がわかる。
留三郎だ。
今日は遅くなるので先に寝ていてと言ったのだが、どうかしたのだろうか。もしかするとまた用具の修繕をしていて怪我をしたのか。それとも、どこか具合でも悪くなったのだろうか。
そんなことを思案しているあいだにも、足音はまっすぐに医務室に近づいてくる。そしてそれは医務室の前でぴたりと止まった。
「留さん?」
伊作から先に声をかけると、障子の向こうにいる気配が動きを止める。
「入ってきてくれてかまわないよ。その代わり、静かにね」
できるだけ声をひそめて言うと、留三郎は心得たとばかりに気配を消した。そして音もなく障子をあけ、室内にいる伊作たちを見るなりびしりと固まってしまう。
「え……、幻覚か……?」
「なにがだい?」
障子をあけたままそんなことを言う留三郎に問いかけると、彼はふるふると震える指で伊作のひざ元を指した。
「文次郎が見える」
「そうだろうね、ここにいるから」
「膝枕して、る?」
「うん」
膝を枕にして寝息をたてている文次郎に視線を落とし、また留三郎に視線をもどしてうなずくと、彼がカッと目を見開いた。次にどうなるか簡単に予測がついたので、伊作は留三郎がくちを開く前に鋭く言う。
「留三郎、医務室では静かにね」
「う……っ!」
先手を打たれて勢いがそがれたのか、留三郎はグッと喉を鳴らして黙りこむ。そして無作法に一度だけ舌打ちして、言いつけどおり静かに障子を閉めると足音をたてずにこちらに近づいてきた。
「留?」
「……起きねえ」
留三郎が心底嫌そうに眉をしかめる。たしかに、これだけの人が傍で声をあげているのに文次郎が目を覚まさないのは珍しい。
「よっぽどひどい寝不足だったみたいだねえ」
「それで膝枕か」
「そんなわけないじゃないか。睡眠不足のせいで頭痛がして、眠れないっていうからさ」
指圧してあげてたんだ、と言いながら伊作は止めていた指を動かして頭皮を揉んでいく。そうするとやはり頭痛が治まるのか、文次郎の眉間に寄っていた皺が緩んだ。
「こうしてると子どもみたいだよね」
「コイツがそんな可愛いもんかよ」
吐き捨てるように言って、留三郎はドカリと伊作のすぐ隣に腰を下ろす。
「……留さん?」
「なんだよ」
「えーと……、怪我でもしたの?」
「してねえ」
「うーん? じゃあ、身体の具合が悪いとか」
「健康だ」
文次郎の頭をやわやわと揉みながら留三郎がここに訪れた理由を問いかけてみるが、どれも見当違いらしくそくざに否定されてしまう。しかも留三郎の機嫌がすこぶる悪い。どうしたものかと指の動きは止めずに苦笑いを浮かべて首をかしげていると、隣にいる男がちいさく溜息をついた。
「暇だったから来ただけだ」
「あ、そうなんだ」
「そうしたら不愉快な現場に出くわした」
「とめさぶろー」
子どもに言い聞かせるように名前を呼ぶと、彼はむすりとした表情で押し黙る。喧嘩するほど仲が良いのやらなんなのか、いちいち文次郎を目の敵にするこの男は存外子どもっぽい。
「留三郎」
「……なんだよ」
「新野先生がお帰りになるまでこうしておくつもりだから、留さん先に寝てくれていいよ」
膝の上でおとなしく眠っている文次郎の頭を柔らかく指圧しながら告げるけれど、隣にいる留三郎からの返答がない。部屋にもどる気配もなく、ただ黙ってそこに座っている。
どうかしたのかと視線を向けようとしたとき、こつりと肩に重みがかかった。
「留さん?」
「いい。おまえと一緒にここにいる」
「そうかい?」
「ああ」
留三郎はそう言ったきり、まぶたを閉じて黙りこんでしまう。長屋に帰る気はなさそうだ。
今日も体力を使う実習をしたので疲れているだろうに、なにを好きこのんでこんなところにとどまろうと思うのか。
「……疲れてるならちゃんと布団で眠った方がいいよ」
「そこまで疲れてない」
「ほんとかい?」
文次郎から手を離して留三郎の額をするりと撫でると、その手のひらをがしりと掴まれてしまった。
「おまえの手……冷てえから気持ちいい」
「そう? じゃあ、しばらくこうしてようか」
「ああ」
手のひらをぺたりと留三郎の額に押し当てると、彼は気持ちが良さそうに瞳を細めた。しかし伊作の腕を掴んだままで、自由にしてくれる気配はない。
なんだかよくわからないが、彼にしては珍しく甘えたい心境なのだろうと心の中で納得して、したいようにさせておくことにする。
膝には眠っている文次郎。
肩には穏やかな顔の留三郎。
そんなふたりに挟まれて、なんだか平和だなあと伊作は思う。
いつまでも続かない幸せだとわかっているからこそ、伊作はこの時間を抱きしめたいほど愛おしく思うのだ。