誓い
まるで一人で生きているみたいにヒラリと外に出て行く姿を見るたび、もしかしたら帰ってこないかもしれないと思ったのも一度や二度ではない。生き残るのに必死な人々で溢れかえっている外の世界こそが、胸いっぱいに空気を吸える自由な場所なのだと後姿が語っている気がして、口を開いてもいつも言葉を飲み込んだ。
不用意な言葉を口にすることを嫌うネズミは極端に無口だ。端整な顔をにこりともさせず気が向かないと冗談も言わないが、気が向いたときはいぶかしむほど饒舌になる。それは大抵人を皮肉るときで、嬉々として口悪く罵った後に少しは後悔するらしくわずかに顔をしかめるのが常だった。
一人取り残された部屋は平穏で静寂だ。遊びに誘うかのように本の間をハムレット達が走り回っている音だけが耳につく。紫苑は時々彼らを指の先であやしながらゆっくりと物思いの泉に沈んでいった。
紫苑の体は火藍と顔も知らない男と祖母と祖父と曽祖母と曽祖父とその前とその前とその前と・・・延々と遡っても血の繋がりがある人たちのDNAを受け継いで成り立っている。
顔は火藍に似ていると言われた。自分でもそう思う。流れ出る赤い血にネズミの影はどこにもない。
細胞は日々の体の成長とともに分裂して増えていく。一つが二つ、二つが四つ、四つが八つ・・・。
古い細胞には確かに忘れることのない火藍の記憶が刻まれているのに、新しく生まれ変わった細胞はその影を残しながらも全くの別物に成り代わっている。
そこにはほとんど百の確立でネズミだけが鮮やかに浮き立っていて、頭の先から爪先まで自分がゆっくりと別物になっていくのを感じる。そんなことは知ったことじゃないとネズミは言うだろうが紫苑にとってそれは不快ではなく、むしろ体が火照るほどの喜びと輝きをもたらし、出会ってしまった、いや出会えた幸運に昔信じていた神に何度も感謝する。
不衛生な生活がこのままずっと続くとしても綺麗なものしかない衛生的なナンバー6には何の未練もなかった。
救い出そうとしている沙布にさえ会えなくなってもかまわないと心のどこかが思っている。最優先事項はいつでもネズミだ。
自分の弱さを他人に預けることで救われたつもりになっているとネズミは言うだろう。そして、それは迷惑なことだと綺麗に整った眉を器用に片方だけ上げて言うだろう。
でもネズミより先に死にはしない。目の前で死にそうになっていても僕は死なない。どんなことをしても生き残る。それがネズミの願いだから。
僕は知っている。ネズミが僕を足手まといだと心底思い、それを平然と口にしながらも決して見捨てることができないことを。僕が彼のアキレス腱なのだと。彼が僕を見捨てられないのなら彼が願っている通り僕が彼を見捨てよう。
どちらか一方しか助からないとき、ネズミは迷いなく僕に生きろと言う。そして、持っている力すべてを使って僕を生かすべく最後の最後まで努力するだろう。
だから僕はネズミを見捨てる。これ以上ないくらいすっぱりと。
大丈夫、心配しないで、ちゃんと殺してあげるから。
ネズミが誰かに、何かに、たとえ事故であれ自分の知らないところで死ぬなんてあってはならない。それくらいなら自分が殺す。そして、それをネズミも望んでいるはずだ。
・・・無口な癖してネズミは注文が多いんだ。生きろと言ったり、殺せと言ったり。まぁまだ口にしてはいないが、そのうち言う。ある程度のことがなんとなくわかるように感覚が尖ってきたのは死が珍しくもないこの世界に転がり込んでからだ。
僕らが二人で殺し合いをしたら、たぶん僕が勝つ。僕はきっと顔見知りでも殺せるけどネズミは殺せない。半殺しにはできるかもしれないが最後の一手が下せず、そこをさっくり殺られるんだろう。
一度懐に入れてしまうと情が移るなんて、この西ブロックにおいて愛すべき馬鹿さ加減だ。いつも「自分の身は自分で守れ」と口をすっぱくして言ってる癖に。しかし、ふいに見せるその未熟さが悪魔的な歌声以上に僕を魅了する。
安心してよ、僕は迷わない。
ふいに手を伸ばして「綺麗な髪だな」と呟いた君さえひとおもいに殺してみせる。
どうでもいいことかもしれないけど、できるだけ傷つけないように気を付けるよ。実は君の美貌も気に入ってるんだ。
ネズミを殺す覚悟はとうの昔にできているが、とりあえず問題は今夜の食事だ。今紫苑にできることは一人分の食事を2と10分の1くらいにするにはどうすればいいか考えることだった。