誓い
佐隈はひとり暮らしをしている部屋にいた。
ただし、ひとりではない。
ベルゼブブ優一がいる。ペンギンのような姿ではなく、魔界にいるときと同じの本来の姿である。ベルゼブブにかけられた結界の力は佐隈が解いた。
ふたり、向かい合っている。
どちらも堅い表情をしている。
佐隈は緊張していた。
こんなことは初めてだから。
部屋に男性とふたりきりでいて、どちらも下着姿である。
いつものように事務所を出たあとにベルゼブブを召喚して、人間に変装したベルゼブブと夜の街を歩いて、ここに帰ってきて、部屋で、話をしたり、触れあったり、キスをしたりした。キスをするのは今日が初めてではなかった。もう何度目かわからないぐらいだ。
それから、おたがい、意を決したように、それぞれ着ているものを脱いだ。脱いだものは床に落ちている。
しかし、下着を脱げずにいる。
ためらってしまう。初めてだから。
恥ずかしくて、うつむきかけて、だが、佐隈は伏せた眼をふたたびあげて、ベルゼブブを正面から見る。
綺麗な青い瞳をじっと見る。
ふと、ベルゼブブの手が伸ばされてきた。そばにいるので、その手はすぐに佐隈に届く。
頬にベルゼブブの手が触れるのを感じる。
心臓が激しく鳴っている。痛いほど、胸を内側から強く打っている。
体温が上昇しているのを感じる。頭が一番、熱い。自分の顔は赤くなっているだろう。
ベルゼブブが身体を寄せてきた。
その体温も感じる。
どうしてだかわからないけれど、その体温が心地良くて、触れあって、いっそ、おたがいの体温が溶けあうことを望む。いや、本当は、それがどうしてかなんて、もちろん、わかっている。この感情がなにかを知っている。相手も同じであるのを感じ取っている。だから、今、こうしている。
唇に、触れられる。
キスをする。
このひとは私とキスをするために、好物を長いあいだ食べていない。
そういうひとなのだ。
人間ではないけれど。
大切にされている。それを感じると、脳がくらりとする。
「……さくまさん」
すぐそばからベルゼブブが呼びかけてきた。
「恐いですか」
なにが恐いのか。これからしようとしていることだろう。恐いから嫌だと返事をしたら、ベルゼブブはどうするのだろうか。やめるのだろうか、やはり。
「恐いですよ」
佐隈は答える。
「私、初めてですから」
この先のことを考えれば、怖じ気づく。
「でも」
怯む気持ちを押しやって、きっぱりと言う。
「ベルゼブブさんだからこそ、その初めてを持っていってほしいんです」
「さくまさん」
ベルゼブブは少し眼を見張った。
「私は悪魔ですよ」
「知っています。でも、問題はないんでしょう?」
これからしようとしていることに問題があるのなら、ベルゼブブは最初からしようとはしなかっただろう。
ベルゼブブが問いかけているのは、初めての相手が悪魔でいいのかということだろう。
相手が悪魔ということに対して、ためらいがまったくないわけではないのだが、これまでのことを考えると、信じられるし、すべて乗り越えてしまいたいと思う。
「そうですね、そのこと自体には問題はありません」
ベルゼブブの佐隈に向ける眼差しが強くなった。
彫りの深い整った顔には、真剣な表情がある。
「さくまさん、私は誓います。一生、私はあなたを」
「ベルゼブブさん」
佐隈はベルゼブブの言葉をさえぎった。
「誓わないでください」
「なぜですか」
「アザゼルさんに聞きました。悪魔の誓いは契約と同じで、誓いに縛られて、一生と言えば本当に一生になるって。だから、誓わないでください」
「どうしてでしょう。あなたの気持ちが変わるかもしれないからですか」
「私は人間ですから、絶対に変わらないとは言えません」
人間は悪魔のように契約や誓いに絶対的に縛られるわけではない。
そのため、アザゼルの言ったとおり、人間は悪魔よりも不誠実になるのかもしれない。
「でも、だから誓ってほしくないわけではないんです」
自分はいつか心変わりすると予想しているからではないのだ。この気持ちは、いつまでも変わらないだろうと思っている。信じている。
「私がベルゼブブさんより先に死んだとき、そのあとベルゼブブさんが長く生きるのなら、私がいないのに気持ちが一生変わらなかったら、困るでしょう?」
自分が死んだあとに、ベルゼブブが死ぬまで誓いに縛られていることを想像した。
「私は、私の死んだあと、ベルゼブブさんに幸せになってもらいたいです」
もういない相手を死ぬまで想い続けるのは、つらいだろう。ベルゼブブが他の女性と仲むつまじく暮らすのは、喜べない部分もあるが、しかし、そこに自分がもういないのなら、しかたないし、ベルゼブブがつらいのよりはマシだと思う。
好きだから、こそ。
「……たしかに、悪魔は誓いに縛られます。一生と言えば、一生になります」
ベルゼブブは言う。
「でも、確信しているからこそ誓うのです。誓っても、誓わなくても同じだ。変わらない。誓わなくても、一生、変わらない」
強い口調で続ける。
「だから、ただ、誓いたいだけだ」