日常生活
「ヒート……」
口が俺の名をかたどるなり、その温度を感じさせない色味のない顔の前が鮮やかに赤く染まった。
「ああ……俺の、ヒート……!」
造作の美しい、だがそれ故に感情の動きが現れないサーフの顔に見たことのないような動きが走り、そしてまっすぐに自分に向けて正しい人の形をした腕が伸ばされるのを、俺は呆然と見ていた。
俺の、と言うサーフの心の動きが、自分のそれと重なる。お前も同じ疑いを抱えて、苦しんで、それでも走って、ここで俺に貫かれたのか。自分の知っている、同じ時を過ごしてきた男が<ヒート>なのだと、お前の答えはそっちに針が振れたのか。
今もまた、これまでいつだってそうだったように、お前は俺の先を行くのか。
「……サーフ……!」
不可解な液体の中、現実には音がどのように響いているのか解らない。だが思わず口にしたお前の名前を、お前は正しく拾ったようだった。僅かに青の滲む灰色の目を見開いて、唇を左右に引き伸ばして、そして唐突に顎が上がり指先が曲がって、薄紅の糸を引きながら水底に落ちてゆく身体に手を伸ばす。
人の形をしていない腕。生き延びるために、より強い形に歪んだ腕。目的のために形を変えられるそれが、今また新しい形に歪んでくれることを、ほとんど酸素を求めるように切実に思った。
お前こそが俺のサーフだと、何故信じられなかったのだろう?
お前から伸ばされる腕を、何故届かなくなってからしか掴もうとしなかったのだろう?
「サーフ!」
何かが、誰かが呼んだかも知れないその名を、俺にとって唯一人のお前に向けて叫ぶ。
俺の、サーフ。
俺には、お前だけだったのに。
知人からかけられた声に振り向いた拍子に、傍らから注がれていた視線に気付いた。軽く手を挙げ通り一遍のリアクションを返しながら、目は向けずに声でわざと不機嫌を表現する。
「何か言いたいなら口を使えよ。俺に察しの良さを期待するな」
「いやあ、勝ち目のない賭けをしたくなってさ。たまにはこうやって平らにしないとね。積み過ぎるのは怖いことだから」
不可解な理屈をこねる、不本意ながら現在の俺の最も親しい友人はそういって実のない笑顔を向けた。
自分の魅力をさりげなく強調するような、例えばうぶな年下の女の子に向けるような笑顔。出会った頃の美少年面(昔科白を覚えてしまうほど繰り返し見た、戦争モノが得意な監督が息子のために撮ったというファンタジー映画の主役の子役を俺は密かにいつも思い出していた)に流れた月日を加算して、サーフは<清潔で理知的で、時折滲む色気がたまらない好青年>とやらに変貌をとげた。こいつのすごいところはそんな陳腐な人物評を数時間前に別れを告げたせいで目の前で号泣された元恋人からもらえるところで、最近は何を思うのか戯れに俺にもそんな顔を向けてくる。
「勝手に賭けのネタにするな。誰と……」
「誰でもない、僕さ。猜疑心の強い僕とおめでたい僕。結果は猜疑心のほうが圧勝で、僕は今君にコーヒーでも奢ろうかなと思ってる」
訳がわからない。
「……時間になりゃ昼飯は食うし、飯の後にはコーヒーを飲むこともあるだろうさ。そんなのは出所が誰の財布だろうとどうでもいいことだろ?」
「つまり君は遠回しに<故無く奢られるいわれはないが昼食を共にしよう>と誘ってくれている訳だ」
嬉しいね。
囁くように呟いて、俺の左腕に腕を絡めて、ご丁寧に手まで握ってくる。何の冗談だと、振り払おうとして向き直った先には例の実のない笑顔があるとばかり思っていた。
なあ、一体どういうつもりなんだ?
調子が狂う。お前の外面の良さと俺に向ける顔のギャップが腹立たしいのは否定しようのない事実だが、心おきなく腹を立てられる関係にあぐらをかいている自覚もある。お前も、取り繕わなくていい俺で適当に息抜きをしているんだと解釈して、そんな風に俺達は<親友>を続けてきたのだと思っていた。
それがどうして、冗談のようなお綺麗な笑顔でも、口の端を歪めるような笑顔でもなく、俯いて握った俺の手をじっと眺めるような真似をするのか、俺にはその意味が解らない。
察しの良くない俺は、言葉にしてもらわなければ解らないんだ。
「……ヒート……」
「昼飯、食いにいこうぜ」
俺にはまるで見えない何かを、その目に映しているのかも知れない。俺なんかには言っても伝わらない何かを抱えているのかも知れない。お前の時間を今ここにいることに割くのはお前一流の気まぐれなのかも知れない。
それでも。
察しの良くない俺でも、せめてお前が言葉にするまで待つくらいのことは出来るから。
胸の前で組むときのように、絡められた指と重ねられた手を握り返し、引きずるように歩き出す。すれ違う奴等の、ぎょっとしたような顔やあきれ顔、ひそひそと笑う声、そして何より後ろから伝わる小刻みなふるえと喉の奥からでるような音が俺の顔を熱くするが、俺は昼飯を確保するために早く食堂に着きたい。そういうことにしておいた。
今でなくてもいい。
察しが悪いだけじゃなく短気な俺は待つことがそれほど得意なわけじゃないが、<親友>の為なら不慣れなことを頑張ってみるくらいは当たり前だろ?
お前の、人の悪いくすくす笑いに隠れた、握り返す手に込める力の意味を、いつか聞けると信じている。
「ヒート、大サービスだなあ……ついでにキスの一つもしてくれれば君のレベルからすれば申し分の無い出来だよ」
「はあ?……俺はお前と違って積極的に嫌がらせなんかしない、善良な市民なんだよ」
すっかり元の調子を取り戻し、だがまだ手をほどかないサーフの科白を適当に聞き流した俺は、その後一連の小芝居と飛びかかるように仕掛けられた頬へのキスを受け取る羽目になり、昼飯はまともなメニューを食いはぐれ、大学とは関係のないところで選んだはずのバイト先であらぬ疑いをかけられる(具体的に言えばロッカールームで露骨に避けられる、といった、実害はないがいい気はしない類の誤解だ)ことになる。