それはとても残酷なほど美しい〔静帝〕
思えばそこは、何もない田舎だった。
どこまでも続く青い空の果てだとか、誰も足を踏み入れることのない山奥、昼間ののどかさが嘘のような先の見えない夜の闇。それらすべてにどこか自分の知らない世界があるんじゃないかと、帝人は意味もなく胸踊らせていた頃も確かにあった。でもそれももう、ずいぶん昔のことのように思う。帝人は実際、空の果てをこの目で見たわけじゃないし、結局山奥に足を踏み入れたわけでもなければ、真夜中に暗闇を歩き回ったわけじゃなかったけれど、そこに期待するような何かがないとわかるのにそう時間はかからなかった。
代わりにパソコンという小さな箱が、簡単に帝人を広大な世界へ連れ出した。画面の向こうにある出来事は、確かに自分が欲しかった答えだと思いどんどんとのめり込んだが、それに慣れてしまうのにもまた、時間はかからなかった。
そうして帝人は田舎を捨て、高校進学を機に池袋という新たなステージヘまた一歩足を進めた。高層ビルに阻まれた狭く濁った空や、人があふれるほど行き交うのに近づこうとしない裏路地や、夜になってもネオンがギラギラと照らし闇の訪れない街。そしてそこで新たに出会った人々。それらはすべて刺激的で、ここでならきっと隠された何かを掴み、自分はずっと欲しかったものを手に入れられると思った。
そして今、目の前に見えるのは宙を舞う自動販売機や、車。折れ曲がった標識が、人の手によって簡単に振り回されている。それらすべては、平和島静雄によるものだ。
喧嘩をふっかけたのか、それとも意図せずに彼を苛立たせてしまったのかはわからないが、数名の若者達は当然戦意喪失して(というかもう、立ち上がることも出来ないだろう)道路に投げ出されるようにへたりこんでいる。その中心で、まるで死神のように黒いバーテンダー姿の静雄は佇んでいる。帝人はそれを、少し離れた場所からいつものように眺めていた。
何度見ても信じることなど出来なかった。現実に起こり得るはずのないこの非日常は、まるでショーのように日ごとこの街で繰り返されている。恐怖と興奮が入り交じった整理しきれない感情を身体の中に宿し、その場を離れた静雄を、ごく当たり前に帝人は追っていた。一歩進むごとに、鼓動は速くなり、アドレナリンが分泌されていく。公園につくと、ベンチに腰かける静雄の姿が見えた。まだ苛立ちが収まらないのが、革靴を物凄い速さでかつかつと揺らしていることから見て取れる。やがていつものようにタバコを取り出し火をつけようとしたが、何度やっても上手くいかなかったのか、ライターは静雄によって投げ捨てられる。それは綺麗に円を描いて、帝人の足元に転がってきた。
カラン。
赤い、どこにでもある使い捨てライター。
この時、帝人はもう少しの迷いもなくそのライターを拾いあげ、静雄へと足早に近づいた。目の前に立つと、やはり苛立ちが収まりきらずにいた静雄に刺すような視線を向けられる。けれど、殴られようが、蹴り飛ばされようが、帝人はかまわなかった。ごくりと喉を鳴らし、その場へしゃがんで視線を合わせると、静雄の口元に残るタバコヘ火を灯す。一瞬、静雄は訝しげな顔をしたが、すぐに顔を近づけ、息を吸い込む。その一瞬の短いようで永遠のような時間、帝人は初めてネットヘと繋がった時を思い出していた。
確信。
僕はこの人と繋がりたい。
「落ち着きました?」
向けられた笑顔に、その穏やかな声に、静雄は自然と平穏を、落ち着きを取り戻したような気がした。改めてその顔を見ると、記憶のどこかにひっかかる。会うのはこれが初めてじゃないかもしれないと、その時気づいた。
「お前、確か…名前は」
「竜ヶ峰帝人です」
想像してたより名前は仰々しいが、目の前の少年はどこまでも普通で、静雄は妙にくすぐったい気持ちになった。何故この少年はいとも簡単に当たり前のように自分に話しかけてくるのだろう。まさか何も知らずにいるわけではないだろうに。伏せていた顔を上げると、相変わらずこちらを見たまま。
「お前、俺が怖くないのか?」
普段ならすることのない問いかけを口にすると、竜ヶ峰と名乗った少年は目をまるくして、その後首を何度も振る。変なやつだ。ただ、静雄はずっと昔、こどものころに声をかけてくれた女の人を思い出す。
「突っ立てないで、座れよ」
ひとつのベンチに二人して座ったが、互いの想いはどこまでもすれ違う。
それでも走りだした感情は、もう後戻りできはしないのだ。
作品名:それはとても残酷なほど美しい〔静帝〕 作家名:マキナ