夏の定番
縁側に腰かけ、水を張ったたらいに足を漬ける。これだけで幾分涼しい気がし、思わず呻き声を上げた。自分の国とは随分と涼み方が違う。
借りたジンベエとやらは布自体が軽く、着ているのか着ていないのか分からないほどだ。あー、と妙な声を上げ、背を伸ばした。やはり日本は良い。何よりあの小僧っこが居ないのが良い。そう思いながら床に背をぺったりと付ける。
息を吸い込めば湿気を含んだ空気が肺に降りた。このまま寝てしまうのも良いが、主に対する非礼になろう。
幼い外見でありながら、自分よりも年上の家主を思い出し、意識を保ちながら目蓋を降ろした。足を動かすとちぇぷんちぇぷんと軽い水音が鳴る。廊下を駆ける軽い足音と気配はするものの、姿は見えない。
主は一人暮らしと言っていたから、恐らく人ならぬ者なのだろう。音は聞こえども姿は見えない。意識をそちらへ向けるととてとてと近くに近寄られた。気配はするがやはり声は聞こえない。
ふ、と手を翳してみればその手に何かが触れる。しかし確かな形はそれには無く、意図も見えない。悪いものでは無いのだろう。でなければ他の者が放っておく筈がない。分かっていても不思議で声を出しかけて止めた。
じゃり、と土を踏みにじる音が聞こえ、くぐもった声が聞こえる。聞き慣れた声をあえて無視し、わざと足を振り上げた。ぱしゃん、と跳ねた水が目標にかかったようでまた堪えるような声が聞こえる。
なんだってまた、ここ日本に来てまでこいつと顔を合わせなければならないのか。
「トルコ……なんでお前が……日本にいるんだ……」
「あーあーうっせぇうっせぇ。なんだってぇ日本ちに来てまでおめぇの顔なんざ見なきゃいけねぇんだい」
もう一度大人げなく水を跳ねさせた。
今度はさすがに避けたのか、ギリシャの気配がどっと負に包まれる。この気に圧されたのか傍に居た気配も足音を立てて逃げていった。上半身を起こすと、先ほどの気配に気付いていたのだろうか、気配が去った方向を見ながら首を傾げている。
「……トルコに近付くなんて……」
「なんでぇ知り合いか」
「時々見かける」
ギリシャはあれが見えるらしい。信じているか否かの違いだろうか。しかし逃げ出す当たり仲良くは無いのだろう。生温くなった水をゆっくりと足でかき回した。
「でも前に話をしたら逃げられた……」
どうせろおくでもない話をしたのだろう。昔から哲学やらなにやらを一方的に聞かせては頭を痛くさせたものだ。それを他人にしたらどうなるかなど火を見るよりも明らかである。
気配とは入れ替わりに、今度は静かにきしきしと床が軋む音が聞こえた。はっきりと知っている者の気配にギリシャがそわそわとし出す。
「おや、ギリシャさんもいらしていたんですか」
いらっしゃい、と口許に笑みを刻んだ。手には三角に切ったすいかと塩瓶を載せた盆を持ち、一糸乱れぬ立ち居振る舞いで近付いてくる。外は暑かったでしょう、などと話しかける日本は明らかに先ほどの気配に気付いていない。
知らない振りをしているのではなく、真実気付いていないのだろう。既に知っているのか、ギリシャは態度には出さなかった。
「ギリシャさんがいらっしゃるんなら、もう少し切って来ましょうか。夜に食後のデザートとしてお出しする予定だったんですが」
「日本、こいつにはここに有る分で充分だぜい」
「……トルコの分も食べるから、良い」
断りもせず、日本の隣に腰を掛けた。早速手を伸ばしたギリシャの手を日本が叩き落とす。指先がすいかに掠り、僅かに青っぽい匂いが飛散した。
じっと拗ねた子供のように日本を見詰めるギリシャに首を傾げる。
「ギリシャさん、食べ物を頂く時はなんと言うんでしたか」
「イタダキマス……」
はい、どうぞ、と手ですいかを示した。どうやらギリシャの躾に走っているらしい。行儀よく両手で持ち、もぐもぐと口を動かしている。
「種は庭に出してしまって良いですよ」
そう言ってまた立ち上がる。またすいかを切ってくるつもりだろうか。会話が途切れ、のんびりとすいかを囓る。こんなにのんびりするのも久しぶりだと背を伸ばし、足が水を跳ねさせた。
その足をじっと見詰めながら唐突にギリシャが嫌な雰囲気を醸し出す。反応すべきか否か迷い、無視を決め込んだ。言い出す事も無く、ただ機嫌が傾くのはいつもの事である。構うものではない。
話もせず、ひたすら食い続けていたせいだろうか、そろそろすいかも一切れを残すところとなった。
みずみずしいすいかはいくらでも食べられそうな気がする。砂糖とたっぷり使った甘い菓子も良いが、青臭く果実の匂いが直接肺腑に滑り込むすいかも良い物だ。日本で食べられる果物はみな美味いとすら思ってしまう。
「あぁ、良いタイミングでしたね」
またきしきしと静かな音を立てながら日本が戻ってきた。また盆を両手に持ち、その上にはすいかが載っている。人数が増えたためか、残りをまるまる切ってきたらしい。
「すまねえなあ、これの為に」
「いえいえ、お安いご用ですよ」
床に置き、先刻と同じ位置に座り自らもすいかを手に取った。一口囓り、うんと頷いてしゃくしゃくと食べ進める。
日本が戻ってきたというのにだまりこくっているギリシャを不審に思ったのか、食べる手を止め顔を下から覗き込んだ。
「どうしました」
「……トルコのすね毛……うざい……」
え、と顔を見合わせて視線を落とすと確かに生えたすね毛が僅かに水に浮いている。が、誰にでも生えているものだし、第一ギリシャとて裾をまくればそこには同じものが生えているだろうに。何故そこまですね毛を疎むのか。
トルコではすねと胸にのみ毛を生やす方がなにかともてるのだ。そんな事ギリシャだって知っているだろうに、と視線を投げても嫌う視線は変わらない。
日本は、といえば窘めるのかと思えば神妙な顔をして何事かを考え込んでいる。これは良くない傾向だ、ととりあえずトイレに行くふりをして逃げようと腰を上げた瞬間、日本に肩を掴まれた。
華奢な腕のどこにこんな力があったというのかと言いたいほど強い。体はそれ以上持ち上がらず、顔を見ればこれ以上ないほど良い笑顔をしている。
「良いことを考えつきましたね、ギリシャさん。私も同意見です」
「いや、日本!? 考え直してくだせぇ、足つるつるになってもですねぇ」
「大丈夫ですよ、トルコさんの肌には傷一つつけずに毛を剃って見せましょう」
そういう事ではない、と言いたいのだが、言い出せる雰囲気ではない。ぽい、と肩をギリシャの方に投げ、急に開放されたせいか体が言うことを聞かずに倒れ込んだ。
横頭を押さえつけられ、床に縫いつけれる。立ち上がった日本はどこか嬉しそうにそわそわとしており、どうやら本気なのだと知った。
……俺の足はどうなるんでい、と考えても状況は変わらず、抵抗も出来ず。
今日は珍しく良き日で有った筈なのになにがどうしてこうなったんだ、と想像しながら溜息を吐いた。