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つぶるる心地

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「津野田、」

幹孝先生はそう一言だけ呟いた。それは俺を責めるようでも卑下するようでもなかったけれど、幹孝先生に今日、こうして呼び出された理由は判っているつもりだった。
ここは生徒指導室。
この教室に入るのは初めてだし、この教室にいる幹孝先生を見るのも初めてだった。「…津野田」幹孝先生の声色は、たしなめるようにも聞こえた。

「――はいはい。俺が悪かったですよっと」

俺はやれやれと呟いた。

「だから許してよねえ、旦那」
「…旦那じゃない。先生だ」
「良いじゃん二人きりなんだからさあー幼なじみのお兄ちゃんで」
「良くはない」
「相変わらずお堅いのね!…はい、先生すいませんでした」

形ばかりに頭を下げて見せると、幹孝先生は僅かに眉を寄せた。苛立っているのかもしれない。幹孝先生はいつもの、何もなくても鋭い眼光で俺を見つめながら、鞄の中から一枚プリントを取り出して差し出してきた。俺は見なくたってそれが何なのか判っていたけど(それ以外に生徒指導室に呼び出される理由が思い当たらない)確認も兼ねて伺うとやはり、そうだった。「てへ」と笑いかけると、幹孝先生は更に眉を寄せる。
そのプリントはつい先週受けたテスト。教科は幹孝先生の教える古典。点数は零点――……白紙で提出したのは初めてだった。

「津野田、どういうつもりだ」
「どうもこうも。わかんなかったからさ」
「嘘を吐け」
「何を根拠に?」

んふふ、と鼻を鳴らして笑いかけると、幹孝先生はもう不快さを隠しもせず舌打ちした。おお、こわ。先生の好きなものと言えば母と古典だけらしいから、まあ解らなくはないけど。

「お前は入学してから今日まで、古典は好成績だったろう。急にどうしてこうなった」
「だから、たまたまわかんなかったんだってぇ」
「毎回授業に出てればわかるだろう」
「寝てた」
「俺はお前が寝ているのを見たことがない」
「えっ」

…何で見てんの。
幹孝先生はあくまで冷静だ。

「何がしたかった?」
「…別に。わかんなかったの」
「いい加減にしろ」
「だーーーかーーーらーーー」

こうなるともう意地である。俺は幹孝先生…旦那にプリントを突っ返した。

「わかんなかったの!!旦那が変な問題作るからでしょう!?」
「いつもと変わらん。…名前だけ書いて寝てたんだろう」
「――ちが」
「見てた」
「………え」

吐こうとした言い訳は、みんなどっかに行ってしまった。それは図星を突かれた気まずさのせいでなく、そう。旦那はここに来て初めて、その顔に表情を浮かべた。

「嘘だ。図星か」
「――…あ、…アンタって人は…!!」

にやりと唇を歪めたままの旦那を睨めつけて、俺は旦那に背を向けた。さっきまで胸を占めていた狂った感情は、全て悔しさに塗り替えられていた。――くそ、駄目だ駄目だ駄目だこれじゃ。むかつく。100点取っても駄目で、0点取っても駄目なのか。じゃあどうしたらいいって言うの!?――…やっぱ、既成事実………

「津野田」
「…何ですかァ」
「拗ねるな」
「言い掛かりです先生」
「やっと呼んだと思えば、悪態か」
「吐いてません」
「今日うちに来い」
「……はあ?」
「どうせ近所だ。尊也のついでに見てやる」

俺が慌てて振り返った時には、旦那はもう涼しい顔に戻っていた。呆気に取られて見つめていると、旦那が「俺の弟が阿呆だと、俺の沽券に関わるからな」と言い訳した――いやそっちじゃねえよ!もっと大事なことが――

「………あ、」
「なんだ」
「…えー…」
「嫌か」
「そうじゃなくて!」

『本当?』なんて訊いたら『嘘だ』と言われそうな気がした。幹孝先生は息を吐いた。ふと手を伸ばされて、一度は突き返した白紙のテストをまた掴まされる。名前だけ書いた――津野田現人――良く見ると落書きされている。『アホ人』あんたねえ…
テストから顔を上げると、旦那はもう扉へと手を掛けていた。「…今日、尊也は部活だったかもしれんな」知ってるよそんなの部活だよ!それだけ言うと、幹孝先生は出ていってしまった。

生徒指導室には、くしゃくしゃのテストを握り締めた俺だけが残っている。死にかかっている。ちくしょう、殺されかけた。胸中で激しく暴れまわる心臓を指で掻いた。
作品名:つぶるる心地 作家名:みざき