約束 菊視点
いきなりの知らせに目の前が暗くなった。体から力が抜けてペタリとその場に座り込む。
「そ、そんな。」
たしかにそういう声が我が家でも、あの人の家でも高まってきていたのは知っていた。
利害が合わなくなってきたことや、アルフレッドの上司がこの同盟を崩そうとしていることも。
そしていきなり目の前に突き付けられた「日英同盟、事実上の崩壊」という絶望的な言葉。
「これによって我が国は世界的に孤立することになるが仕方がない。もうアイツとは会うな。わかったな日本」
頭上から上司の淡々とした声が降ってくる。反論しようとするが声が出ない。
足音とガラガラという戸の動く音がして上司が出て行ったのが分かった。
あの星の降る夜、彼とした約束。日本とイギリスという国としての約束と別に
個人として、菊とアーサーとして誓ったもう一つの約束・・・。
あんなに強く、固く見えた物がこんなに儚く消えてしまうとは・・・
彼はいったいどうしているのだろう。菊と同じようにいきなり上司に告げられたのか
・・・考えたくもないが、すでに承認済みだったのか。
思考がどんどん悪い方へ走っていく。日本人の特性だ。
コンコン、と戸を叩く音がした。・・・こんな丁寧な事をするのは彼しか思い当たらない。
なんとか玄関へとたどり着きガラッと戸を開けた。
案の定、そこに立っていたのはイギリスことアーサー・カークランド本人だった。
いつものように照れくさいような不機嫌なようなムスッとした顔をしている。
「菊。」
最初に口を切ったのはアーサーだった。
「なんですか。」
ワザと嫌そうな声で答えてみる。
「俺もさっき部下に聞いた。その・・・。」
「いいんです。気にしてませんし。」
気にしてない、なんて真っ赤な嘘だった。
「そ、そうか。なら良かった。そんじゃあ、俺はこれで」
アーサーは足早に去っていく。
待ってください、の一言が出なかった。バタバタと足音が遠のき
そして、何も聞こえなくなった。
菊は絶望感をかみしめながら再び居間へと戻った。
「これでいいのでしょうか・・・。」
思わず口から言葉が漏れた。
離れたくない。思いが全身を駆け巡る。
追いかける、追いかけない。しばらく自問自答を繰り返した後
「今ならまだ、まに合うでしょうか」
そう言ってあの夜と同じ着物の上着を羽織った。
「行きましょう。」
自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。
そうして菊はアーサーの家へと向かった。
「・・・大きい。」
アーサーの家はまるで城のように大きかった。
風に乗って彼の国花である薔薇の花の香りがした。
緊張のせいかお腹がよじれそうだ。おまけに心なしか寒気がする。
「日本男児たるものこのような所で負けるわけには・・・。」
お腹をおさえて玄関までたどり着く。そして時を重ねた古い木の扉をコン、コンと二回叩く。
いっそのこと留守だったらいい、という菊の願いを無視して重そうな扉がギギィと音を立てて開いた。
「何の用・・・うわっ、菊!!」
「こんばんわ、アーサーさん。」
「お前、えぇっ!?な、何でここに。」
「少しお話したいことが・・・。」
「まぁ、うん、上がれ。紅茶入れてくる・・・って菊、お前顔赤くねぇ?」
「えっ?」
そういえば顔が火照っているような気がしないわけでもない。
「大丈夫か、腹が痛かったり、寒気がしたりしないか。」
・・・思い当たる節がいくつかある。
と、そのときペタリと額に何かが当たった。それがアーサーの手だとわかるまでに数秒かかった。
「ふぇっ?」
心臓が異常にバクバクする。
「動くなよ。うん、やっぱ熱い。」
パッと手が離れた。少し寂しいと感じてしまう。
「菊、お前風邪ひいたな。」
「そ、そうですか?」
「おい、ちょっとこっちに来い。」
「なんです・・・。」
フワリと体が浮いた。
「少し寝てろ。それにしても、お前気づかなかったのか。自分が風邪ひいてるって。」
・・・これは、この体勢は俗にいう『お姫様抱っこ』なのでは?と、そう気づき顔がカッと熱くなった。
「欧州文化は複雑怪奇でよくわかりませんが、何故こちらが恥ずかしくなるような物が多いのでしょうか・・・。」
「・・・?なんか言ったか。」
「いいえ、何も。」
広い屋敷を歩きまわりアーサーはいつもの応接間に行くと大きめのソファに菊を横たえた。
「な・・・。」
「いいから寝てろって。」
アーサーの声とともにカチャカチャと食器の触れ合う音がする。
「・・・はい。」
菊は素直に従った。
「あの・・・。」
「なんだ。」
「あの約束、覚えてますか?」
ブッと何かを吹き出す音がした。驚いて起き上がりアーサーの方を向くと顔が真っ赤だった。
「お、おま、お前何でこのタイミングでそんなこと・・・。」
「あ、す、すみません。失礼でした・・・か?」
「い、いや、そんなことはねぇ。」
「私たちが国として結んだ約束は消えました。しかし・・・。」
「覚えてるに決まってんだろ。」
アーサーが珍しく口を挟んだ。
「俺はお前こそ忘れちまったんじゃねぇかって。」
「忘れるわけないじゃないですか!あんな大切な約束。」
「ん?」
気づいたらアーサーがこちらを覗き込んでいた。宝石みたいな緑色の瞳に一瞬、心を奪われる。
「今、大切って言ったか~?」
「あ・・・。」
思わず口がすべったらしい。アーサーがニヤニヤと微笑んでいる。
「俺との約束、大切って思ってくれてたんだな?」
「い、いや。その、これは・・・。」
「大切じゃないのか?」
アーサーがすねたようにつぶやく。
「大切ですよ。大切ですって!」
・・・言ってしまった。
「俺はこの約束だけは絶対に破らねぇからな♪」
「え・・・?」
さらりと言われてしまった。
「わ、私もこの約束だけは、破りたくありません。」
「じゃぁもう一回誓ってやる。」
アーサーが菊の耳元で何かを囁く。菊の顔がさらに赤くなった。
「俺の命をかけるぜ。」
「よ、よろしくお願いしますね。」
二人は一瞬見つめ合った後、一緒に笑い出した。
広い屋敷に二人の笑い声が響いた。