そらとら
サイドテーブルの時計を見れば、寝入ってからまだ三時間ほどしか経っていない。
しかし、体内時計はいつもの通り目覚めの時刻を知らせている。
このまましばらくベッドの中でまどろむのも素晴らしいことのように思えたけれど、やはり毎日の習慣を怠るのはよくない。キースはそう考え、できる限りそっと体を起こしてベッドから抜け出した。
しかし、ベッドから床に両足を降ろしたところで、スプリングが小さく音を立てて揺れた。
しまった、と思ってそろりと背後を振り返れば、案の定、そこには茶色の寝惚け眼が、ぼんやりとこちらを見上げていた。
何かを言いかけて少しだけ開いた唇の端に、キースは先手を打つようにそっとキスを落とした。
「おはよう。そして、おはよう」
声をひそめて、にっこりと微笑みかける。
彼はいかにも眠たそうに、ふあ、と欠伸を噛み殺した。
「………おはよ。ってか、まだ外暗いんですけど」
「そうだね。だから君は、もうしばらく眠っているといいよ」
「お前は?」
「私は、これからジョンと朝の散歩に出掛けてくる。すぐ戻るよ」
そう言ってうつ伏せに寝ている彼の顔を覗き込むように微笑む。
すると彼は気だるげな様子で少しだけ顔を上げてこちらを見つめ返した。
「…………一緒に行こう、とは言わないわけだ」
ぽつり、と呟いたのは独り言のようにも聞こえた。
思わずきょとんとして言葉を失ってしまったキースの表情を見て、彼は顔の半分を枕にうずめたまま、眉尻を下げて声を立てずに笑った。
「いいよ、忘れろ。ゆっくり行ってきな。俺はその間、二度寝させてもらうから」
「ワイルドくん」
「そうだな、散歩のついでに新鮮な果物でも買ってこい。朝飯のデザートにしようぜ。朝飯は俺が特別に作ってやるよ。な、いい考えだろ?」
そう言って、にい、と口の端を上げると、彼はベッドから出した腕をこちらに伸ばし、ひらひらとだるそうに手招きをする。
彼は何も言わなかったけれど、キースはベッドの側に膝をついて、寝ている彼の頬に口付けた。すると、よくできました、とばかりに、彼は節くれだった長い指でキースの金色の髪をわしゃわしゃと乱暴に撫でてくれた。
*******
夜明け前の公園には、まるで人の気配がなかった。
東から徐々に白み始めた空を見上げ、キースは胸いっぱいに朝の清々しい空気を吸い込む。
体の中を、風が吹き抜けていく。
一日の始まりとともに自分が生まれ変わるための、ちょっとした儀式のようなものだ。
どんな事件があった翌日だろうと、ここでこうして朝を迎えることで気持ちを切り替えることができる。
悲しく遣る瀬無い出来事があろうと、己の無力感に苛まれようと、それを言い訳に立ち竦んだりはしない。ヒーローであるということは、前へ進み続ける勇気を持つことだと気づかせてくれた人がいた。
この公園を訪れると、キースはいつもあのときの彼女の瞳を思い出す。
大きな噴水の飛沫の音を聞きながら、小さなベンチに座って。
今にも消えてしまいそうだった、可憐で儚いその姿。
何ひとつ伝えることのできなかった、大切な記憶の輪郭。
いつかまた、どこかで出会えたら、と。そう思う気持ちは、今も心の中にある。
けれど、それは一時のようなつらい痛みを伴うものではない。
やさしく、穏やかで、ほんの少しだけ切なさを帯びた、あたたかなものだ。
今も、これからも、ずっと大切なものだ。
(でも、同じままじゃないんだ)
暁の光が、ゆっくりと辺りに散らばる夜の気配を拭い去っていく。
キースは青い瞳を細めて空を見上げ、ぐっと両腕を伸ばし、胸を張る。
静寂に包まれた、うつくしい夜明けだった。
毎朝見ている光景なのに、毎朝飽きもせずに何度でも思う。
だが今日は初めて、そのうつくしさを少しだけ物足りなく感じた。
わんわんっ、と足許でジョンが何かを訴えるように吠えた。
その声にハッと我に返り、こちらを見上げるジョンの顔に思わず口許をほころばせた。
「ああ、そうだね。早く帰ろうか」
耳の奥で、家を出る前の彼との会話がよみがえる。
そういえば、朝ご飯のデザートに果物を買ってくるように言われていたのだった。
「果物は何がいいかな。バナナもいいけれど、林檎もいいね」
いっそ両方買ってしまえばいいのか、と考えながら、キースは先ほど自分が感じた物足りなさの理由に不意に気がつき、小さく吹き出した。
とても単純明快だが、実に素晴らしいその発見に、キースの胸はにわかに踊った。
家に帰ったら、もう一度彼にお目覚めのキスをしよう。
顔を洗ったら、一緒になって朝ご飯にたくさんホットケーキを焼こう。
ほかほかのホットケーキにシロップを垂らして、バターも落とす。
新鮮なバナナと林檎をデザートにして、お腹いっぱいになったらコーヒーを淹れ直し、それを二人でソファに寄りかかりながら飲む。
そうして最後に、この素晴らしい発見について、そっと彼に話して聞かせるのだ。
彼はどんな顔をするだろう。
だが、どんな顔をしていようと、きっと自分は彼に口づけてしまうだろう。
笑われても、怒られても、呆れられても、きっと。
「さあ、帰ろう。彼が待っている」
そう言ってジョンのふさふさの頭をやさしく撫でてやると、ジョンは嬉しそうに、わおん、と吠えて応えた。
舞い上がる風と共に、公園の木々に止まっていた鳥たちが、一斉に空へと羽ばたく。
白波のように青空を横切っていく鳥影を見上げ、キースは今日も新しく生まれ変わった自分の足で、勢いよく地面を蹴った。