かさをもつ
夕刻間近ともなれば尚更の事で、学校帰りと思われる学生や、早めの帰宅となるらしいサラリーマンやら、色んな格好をした人が目の前を通り過ぎて行く。
制服を纏っていれば奇抜だ、と顔を顰められる髪も、私服を着るとそこまで目を引くものではないらしい。ショーウィンドウに映った己の姿――赤いチェック柄のシャツにグレーのトップス、黒のサルエルパンツ――を検分して、副都心はなるほどなぁ、と肩を竦めた。
年相応のカジュアルな服装に身を包んで構内の壁に体を凭れさせる自分が「東京メトロ副都心線」であるなんて、ごくごく限られた人物しか気付かないだろう。事実、前を通る職員の中にも、副都心に気付いて会釈をする者もいれば、そうと気付かずにそのまま通り過ぎてしまう者もあった。思っている以上に、服装と言うものは人にとって重要なラベルであるらしい。
時計代わりに持ったままの携帯電話を開く。着信ゼロ。メールは、一時間ほど前に返ってきたものが最後だった。
通り過ぎていく雑踏はいっそ心地いい。例年よりも早く訪れた梅雨のせいで、視界に入るテナントは傘やレインブーツなどの雨対策のグッズで溢れかえっていた。副都心は男の性を与えられているし、そもそも鉄道路線なのでそこまで気にはしないのだが、女の子と言うのは天候にも服装を左右されて大変だな、と思う。
――まあ、性別も何も関係なしに、副都心がそんな事に気を遣ったら、あの先輩に「お前はもっと運行を気にしろよ」とでも言われてしまうのだろうが。
(……遅い)
すぐ行く、なんて、嘘ばかり。
彼は基本的に嘘は言わない。けれども、それは本人がとても嘘なんて吐けるような上手な性格をしていない、と言うだけで、言った事を反故にされる事はままあった。たとえば、今だってそうだ。
悪い、すぐ行く、池袋にでもいてくれ。一時間前に返ってきたメールにはそう書いてあったから、副都心は渋谷での視察(と言う名目でぶらついていただけなのだが)をやめて、己の路線に乗ってここまで来たと言うのに。
職員か。東上か。もしかしたら西武線の誰かかも知れない。同僚の誰かと言う線も捨てきれなかった。丸ノ内か、銀座か、半蔵門辺りと言う可能性もある。
兎に角、どう言う理由があるにせよ、副都心は今待ちぼうけを食らっていると言う事だけは確かだった。
人並みを包む通路は湿気を含んでいる。もしかしたら、副都心が見た時は小降りだった雨も、だいぶ雨足が強くなっているのかもしれない。
彼の所にいる職員に預けて帰ろう、と思った、その時であった。
「……悪い。マジで悪い」
俯いた副都心の手元に影が落ちて、はっと顔を上げる。目の前にいたのは、これ以上ない程に、そして言ってしまえばいつも通り、顔一杯に申し訳なさそうな表情を浮かべた有楽町だった。
「先輩」
「東上が朝霞台で車両故障、でさ……。お前、知らなかった?」
「……知りませんでした、すいません」
そう言えば、待つ事に夢中になっていたせいで改札のモニターを見るのを忘れていた。
たとえ休んでいいと言われている日だからとは言え、ここを通る職員だって、副都心にトラブルの一言も伝えてくれればよかったのに。もしかして、変な気でも遣われてしまったのだろうか。
「で、取り敢えずの対応の話をしてたんだけどさー、お前待たせてるの思い出して……」
有楽町線のホームからここ――エチカまで、それなりの距離がある。走ってきたのだろう。大きく呼吸するせいで、有楽町のネクタイはばさばさと波打ってしまっていた。
「いえ、別に」
呼吸を整えようと上下する肩のラインと、翻る黄土色の布地とを見ていたら、何だか小言を言ってやる気も失せてしまった。ぽつりと呟いた声は彼にとっても予想外だったのか、有楽町が目を瞬かせて顔を傾げる。
「僕は先輩にこれを渡せるだけで、充分です」
「……何コレ、見た事ない傘だけど」
はい、と渋谷で適当に見繕った傘を手渡してやる。男物にしてはやや細身のシルエットであるそれと、副都心の顔を見比べる有楽町にこくりと頷いて、言ってやる。
「プレゼントです、先輩へ。なにぶん、置き傘があるような所まで行く程の時間もなかったので」
「――なんか、ますます悪い」
驚きながらも、有楽町の手はぎゅっと傘の柄を握っていた。わざわざ彼のラインカラーをしたものを買って来たのだ。そうやって少しは嬉しそうな顔でも見せてくれないと、副都心も報われない。
――まあ、日頃からして、報われた記憶もあまりないのだが。
「うん。お前さ、それ、悪くないと思うよ」
「……何がです」
「だから、お前のその服。私服ってあんま見ないからさ、驚いたけど」
よく分かんないけど、最近の若者って感じ、と、彼らしい感想を吐いて、有楽町がへらりと笑う。
その笑顔は、仕事に追われる社会人のそれであった。けれども、有楽町の目尻には小さな笑い皺があって、そうする度に、そこにくしゃりと皺が寄るのがいい、と副都心は思っていた。癖が出来る程笑っているあかしだ。
「ありがとな。仕事、戻るよ」
「……お手伝い、必要ですか」
「いいって。お前は休みだろ?」
傘の先をひらめかせて、有楽町が後ずさる。制服の彼と私服の自分は、距離が開くとまるで見知らぬ他人のようだった。ああ、副都心にとっても、服装と言うものは重要らしい。
「……傘のお礼、さ」
「え?」
「14日に、返すよ」
じゃあな、と言う頬は僅かに赤みを帯びている。傘を押し付けた時に感じた彼の体温と、言われた言葉とがまぜこぜになって、いつもの調子のいい言葉も出て来ない。
「……それ、期待しちゃいますよ、先輩」
行き交う人の足音は水を含んで高く滑る。雑踏をBGMに、次第に人並みに紛れ見えなくなる白いシャツの背中を見つめながら、副都心はつい弛みそうになる口元を袖口で覆うのであった。