メトロ詰め合わせ
メランコリは寝れば治る
参った。眠れない。
男は出せば眠くなるもん、と一度丸ノ内が笑っていた事をふと思い出した。確かにそれはそうだと思うし、言ってしまえば実際その言葉の通り、セックスをした後は軽いお喋りに興じて眠りに就くのが銀座と丸ノ内の夜の常である。
だと言うのに、今日に限って眠気がいつまで経っても訪れなかった。
いつもはぽつぽつと語りかけているうちに寝入ってしまう丸ノ内も、今日はなぜか黒目がちの目をぱっちりとさせ、銀座のお気に入りであるふかふかの羽根枕に遠慮も容赦もなく肘を突いて足をぶらぶらと動かしていた。
そんな元気があるのならば、もう少し遊んでやればよかっただろうか。
「銀座? どうした、寝ないのか」
じっと見つめている自分の視線に気付いたのだろう、丸ノ内が頬杖を止めて銀座の方を向いた。
「丸ノ内こそ、眠くないの?」
汗をかいたせいで、オールバックにしている髪が一房だけ額にぺったりと貼り付いてしまっている。それを指先で摘んでかき上げてやると、指摘されて初めて気が付いたとでも言わんばかりに丸ノ内の目がきょとんと丸くなった。
「そうだな、そう言えば」
髪に触れた指先をぴんと張られた目尻へ滑らせる。そのまま頬と首筋を伝い、羽織っただけのシャツの隙間から肩の付け根へと手を潜らせると、そこは先程までの情交を色濃く残してしっとりと銀座の掌に吸い付いた。
「何だ銀座、もっかいするか?」
「んー、そうだなぁ」
「俺は別にいいぞ」
銀座の手のせいで余計にはだけたシャツの裾を見下ろしながら、酒を注ぎ足そうかとでも言うような口調で丸ノ内が問うてくる。いかにも丸ノ内らしいあけすけな問い方とその提案の魅力に思わず理性が曲がりかけたが、ベッドサイドの時計は既に深夜を過ぎている。今からもう一度、なんて事になったら、明日は二人ともひどい顔で出勤する事になってしまうだろう。
「止めとこうかな。もう夜も遅いし、君だって疲れちゃうでしょ」
「いいのか?」
「丸ノ内がまだ足りないって言うなら、僕も頑張るけど」
「安心していいぞ! し足りなかったら、俺は今頃銀座の上に乗ってる」
「それはそれは」
肩口から手を引き抜き、シャツのボタンを三個だけ留めてやる。自分のベッドで眠っていて丸ノ内が風邪を引いてしまうような事は避けておきたい。何と言うか、監督不行届である気がするのだ。
「じゃあ何で寝ないんだ?」
「何でだろう。それが僕にもよく分からなくて」
戯れに銀座の波打つ髪を弄んでいた丸ノ内が、少しだけ考え込む表情を見せる。そうやって眉根を寄せて静かに物思いに耽っている様はメトロの古参と言う言葉に相応しい知性を醸し出しているのだが、惜しむらくは彼の場合その状態が全く続いてくれないと言う事だ。今夜もまた暫くも黙ってない内に、分かったちょっと待ってろ、これは名案だぞ、と深夜である事を全く気にしていない明瞭な声で言ったかと思えば、彼はあっさりと銀座の髪から手を離し、シャツと下着だけの姿のままベッドを抜け出してしまった。
「丸ノ内?」
半身を起こしてみれば、丸ノ内は自分の勤務鞄をがさごそと漁っている。まさかそこから雑誌を取り出して読み聞かせしてやる、なんて言い出さないだろうなと思っていると、銀座の予想に反して彼は小さな紙袋を持って戻ってきた。
「銀座、手」
どっかりとベッドの上に胡座をかいて、答える前に丸ノ内は銀座の利き手を取っている。そうして紙袋から小さな容器を出すと、丸ノ内はほら、と銀座の鼻先にそれを突き出して見せた。
「ハンドクリーム?」
「そう。この前銀座に会いに行く途中にデパートに寄ってな、そこで買ったんだ」
「君がハンドクリームだなんて、珍しいね」
それなりに名の通ったブランドの名前が書いてある容器を捻り、中から薄ピンク色のクリームを指先に載せる。その塊を銀座の手の甲にべちゃりと移しながら、丸ノ内はそうだな、と頷いた。
「銀座の為に買ったからなぁ」
「僕の為?」
「俺は兎も角として、銀座の指は綺麗だからな。乾燥とかしてたらいけないと思ったんだ」
丸ノ内は包むように銀座の手へとクリームを塗り込んでゆく。二人の体温で温まったクリームはほのかにバラの匂いを立たせて、それを嗅いだらしい丸ノ内がいい匂いだ、と嬉しそうに呟いた。
当然のように裏返されて、細かく傷の付いた掌に触れられる。日頃の勤務で凝り固まった疲れを解すかのように丸ノ内の指先が動いて、親指の付け根のふくらみをぎゅっと押した。気持ちがいい。
「次、逆」
「ん……」
今もそうだが、もしかして丸ノ内は自分のこの傷が見えていないのではないだろうか。銀座の手を綺麗だと彼は言ったが、普通はこんな風に切り傷の沢山付いた手を綺麗とは称さないだろう。
丸ノ内はいつもそうだ。自分が早川さんへと抱いている憧憬とどうしようもない切望もそのままに、欠片も気にする様子もなく屈託なく笑いかけてくれる。
『早川さんは正しかったんだ』
あの時の笑顔が過去を生きていた銀座にどれだけ眩しく見えたか、丸ノ内と言う存在がどれ程銀座を救ったのか、きっと丸ノ内は分かっていない。分かっていないからこそこうして笑って、自分の手を綺麗だと言って、バラの匂いのするハンドクリームを塗ってくれるのだ。
「丸ノ内、好きだよ」
「俺も大好きだぞ、銀座」
睦言すらこうして臆面もなく返されてしまうのだから、本当に敵わない。
自分よりもうんと年若な彼の無自覚の上にあるしたたかさが悔しくなって、ほら塗り終わったぞ、これで明日はもっと綺麗になるしいい匂いでリラックスしてきっとよく眠れるぞ、と言い終わるが早いか、銀座は丸ノ内の唇へキスを贈ったのであった。
(20090805)