メトロ詰め合わせ
さらでもいと寒きに
オフィス街とて、眠りに就く時くらいある。
それは、たとえば深い深い夜の頃。それは、たとえば大きな連休の中日。
それは、たとえば今日のような年末年始。大抵の企業は昨日が仕事納めだったから、丸の内をうろつくスーツ姿の人もまばらだった。こんな夜にいるのは不幸にも年末に出勤せねばならない少数のサラリーマンと、都心のイルミネーションを求めて歩くカップル達と、それから。
「僕達みたいな暇人、かなあ」
「何か言ったか、銀座?」
「ううん、何も」
暇と言うのも嘘、だ。年の瀬も年の瀬とあって、銀座線と丸ノ内線は今日も沢山の乗客を乗せている。
そんな折、丸ノ内が銀座を呼び出したのだ。ちょっと見附まで来れないか、と言われて駅の休憩室へ顔を覗かせてみると、確かに丸ノ内はそこで銀座を待っていた。それも、至極楽しそうな顔で。
それから唐突に手首の辺りを掴まれて、無言のままに彼の車両へと乗せられた。丸ノ内、逃げないよ、どうしたの、と小声で問いかけても本人はニコニコと笑ったまま銀座を見つめるばかりで、彼の意図はさっぱり読めなかった。まあ、そんなものが読めた事なんて、これまで一度もないのだけれども。
そして無言のまま丸ノ内は東京駅を降りて、手を引いたまま銀座をこの場所まで連れてきたのだ。
――秋の入りの華々しいオープンも記憶に新しい、丸の内ブリックスクエア。
「すごい、綺麗。こんな所君がよく知ってたね、丸ノ内」
辺りをぐるりと見渡して、銀座は心に湧いた言葉を素直に口にした。
ブリックスクエアの中庭は、噴水を中心に電飾で美しい飾り付けがなされている。銀座が囁くと、丸ノ内は我慢していたのが辛かったとばかりにふう、と肩を揺らしながら大きく息を吐いて、ふにゃりと緩んだ笑顔を見せた。
「――そうだろう! オレだってちゃんと最近の場所くらい分かるんだぞ!」
沿線だしな! と昼頃会った時以来のボリュームの声を出して、丸ノ内がえへんと胸を張った。そのまままた銀座の手を取って、先程よりはゆっくりと歩を進ませる。そうして丸ノ内はJR側の奥まった場所にある植え込みの縁に銀座を座らせると、
「ちょっと待ってろ」
と言うなり、たたたと小走りでその場を去っていってしまった。
(――何て言うか、いつも通りだなあ、丸ノ内)
でも、よかった。黙り込むと彼の横顔はいつものひょうきんさをすっかりとどこかへ置いて、精悍さばかりが目立つのだ。密かにどきどきと軽く弾んでしまっていた胸にそっと手を当てて、銀座はほっと安堵の息を吐く。
吐いた息は白い煙のように唇の端から零れ、いっそ幻想的な明かりに溶かされ消えてゆく。中庭の中央に位置している噴水から離れて建物の壁に囲まれると、その建築様式も相まって海外に来てしまったかのような非現実感があった。
(まあ、海外なんて行った事ないけれど)
いつか自分の大先輩であるイギリスのサブウェイだとか、自分達の路線名の由来であるフランスのメトロだとかを見てみたい気持ちもあるのだが、いかんせん無理がある気がする。地下鉄が飛行機に乗って空を飛んだなんて話、これまで一度も聞いた事がない。
丸ノ内はいつ戻ってくるのだろうか。
オレンジを基調としたチェック柄のマフラーに顎先を埋めて、目の前に広がるイルミネーションを見つめる。人工的な明かりであるはずなのに、そう言った電飾にありがちなよそよそしさが見受けられなかった。寧ろ、配置のせいか温かな雰囲気すらある。
(……そう言えばここ、東京日和で見たかな?)
東京日和と言うのは、東京メトロが提供している五分番組の名だ。メトロの各駅にスポットを当てて周辺を紹介する内容となっているのだが、それの東京駅編でこの景色を見た気がする。
そんな事をつらつらと考えていると、消えていったガラス戸を押し開けて丸ノ内が戻ってきた。
「待たせたか?」
「ううん、大丈夫。ありがとね」
手には白地に緑のロゴが眩しいカップを二つ、その片方を銀座に差し出しながら丸ノ内が笑う。
「ああ! 今日はお前の開業日だからな、銀座!」
めでたい日だからな、と言いながら白手袋が覆う手にカップを押しつけてくる。受け取って勧められるがままに一口飲むと、口の中にふわりとクリーミーな紅茶の味が満ちた。香りからしてアールグレイ、それもラベンダーのフレーバーが加えられている。銀座の好きな味だ。
――そう、実は全て分かっていたのだ。どうして丸ノ内が自分を呼び出したのかも、どうして黙ったまま彼にしては似つかわしくないここへ連れて来させられたのかも、どうして自分の好きな味のドリンクを買ってきてくれたのかも、全て。
全ては四つの数字に収束される。十二と三十、今日は銀座の開業日だ。
だからこそ銀座は先手を打って感謝の言葉を口にしたのだが、果たして丸ノ内にはその真意がどこまで読めているのやら。
「……丸ノ内のは? 何買ってきたの」
「モカ」
「そう、道理で」
自分の手に残ったカップをひょいと掲げて、丸ノ内が銀座の右側に腰掛ける。そしてそうするのが当然とばかりにぴったりと体を横に付けて、触れ合ってしまいそうな距離に手を置いて、丸ノ内はカフェ・モカを飲みながら銀座の呟いた言葉に首を傾げてみせた。
「何が道理で、なんだ?」
「ただのコーヒーにしては、甘い匂いがしたからね」
「ああ、なるほど」
アールグレイのベルガモットとラベンダーの香りの隙間を縫うように、チョコの香気の強いコーヒーの香りがふわりと銀座の鼻に届く。気付けば寄りかかるように肩が隣の肩に触れてしまっていたけれど、人気のないのをいい事に、銀座はそのままことりとその肩に頭を寄せてみた。
丸ノ内は何も言わない。だから、銀座も何も言わなかった。
相反する磁石がかちりと引き合うようだ、と思って、その考えのあまりの甘ったるさに目を伏せる。瞼の裏でぼやけて光る明かりを踊らせたまま、銀座は声に出さずに一人の名を呟いた。
(……早川さん)
――見えますか、見ていらっしゃいますか。今年も今日を迎えて、そうして、ああ、今年もこうして終わってゆきます、早川さん。
(僕のかみさま、……そして、おとうさま)
彼の名を思い浮かべる時は、いつでも様々な感情が胸に渦巻いた。ある時は後悔、ある時は慚愧。またある時は、行き場のない憤りすら。
今はその名を囁いても、ただ甘やかな思いがよぎるだけだ。それを年を取ったと表現するのならば、もっとずっと年を取っていきたい、と銀座は思う。
「明日の終夜運転、サボったりしないでね」
「オレだって仕事はちゃんとするぞっ!」
左手でカップを傾けながら、試しにそろそろと右手を丸ノ内の方へ寄せてみる。すると彼はそこに目を落とす事なく手を引き寄せて、やはり銀座に倣ってカフェ・モカを飲んでいた。
その横顔が笑っている事がとてもよかった。緩んでだらしのない笑い方ではあったけれども、銀座の何より好きな笑顔だ。
「……甘いね、丸ノ内」
「そうか? じゃあ、後で戻った時にポットで淹れ直す」
(そうじゃなくて、君が)
いとも容易く自分を甘やかして絡め取ってしまう、丸ノ内の全てが甘い。