あまくてにがい
悪魔の味覚は魂を愉しむためにのみ備わっている。だからはじめのうち、クロードの作る料理も菓子類も食べられたものではなかった。何しろ塩と砂糖を見た目で区別しようとするのだから。もっとも、アロイスとて他人のことを言える立場ではない。夜ごと眠るべき軒先を探しながら暮らしていた身にとって、ベリー類は甘いものではなかったし、パイと言えば固い切れ端のことで、チョコレートの味など知る由もなかった。
腰かけたテーブルの上、銀のトレーに並べられたボンボンショコラを一粒手に取った。艶やかな表面をとっくり眺めてから口に放り込む。
「ん……ジャンドウヤ、かな?」
濃厚そのものの芯を包むビターチョコレートはスパイスの味を引き立てており、ついついもうひとつをと手を伸ばしてしまう。作っただろう執事は何故かいつまで経っても現れず、そのうち少年が摘まむ指の速度がすこしずつゆっくりになっていた。チェリーのリキュールを用いたウイスキーボンボン、絹のようになめらかなガナッシュ、ナッツの感触が残るプラリネ。そのまま固めたミルクチョコレートもある。
甘く、苦い、チョコレート独特の香り。
はじめて口にしたとき、老人はいやらしく笑いながら催淫剤を暗示させる言葉を吐いた。不慣れな味と食感にアロイスは戸惑い、吐き出しそうなのを必死に堪えた。漸くことが終わるころには、飲み込めないでいたものがすっかり溶け、消えてしまったのを怪訝に思ったものだった。次に食べたのがまだ執事ではなかったクロードの手によるクソ不味いくせに見た目だけはやたら整ったいくつか。買えばよかったのに律儀に手作りしてきた悪魔に笑って、チョコレートとも呼べない塊の不味さにも笑った。
美味しいと思えるようになったのは、もうしばらく時が経ってから。アロイスは繊細な味をそれなりに楽しむようになった。クロードのつくる菓子類が大きな楽しみになった。ときどき本当は自分も悪魔の執事もどちらも人間の食べるものを分かってはいないのではないかと疑わしくなるけれど、出されるものが美味しければそれでよい気もした。
邸で人間と辛うじて呼べるのは自分自身のみだとアロイスはよく知っていたから、普段は事実を忘れていなければならなかった。でなければ孤独に耐えきれなくなってしまう。そこら中で口を開けて待っている綻びに足を取られて立ち上がれなくなってしまう。
もうひとつ、チョコレートを。甘くやわらかい、ときどき苦い。きっと確かに美味しい。だって、甘い、なんて、口にする機会なんて殆どなかったのに、美味しいと分かっていた。ふたりで花の蜜を吸ったっけ。
(ルカ!)
こんなにも今は軽々しく放り込むものを口にできなかった弟。今更のように思い出すこと。ぽろりと涙が一粒目端を転がり落ちた。
すると魔法のように紅茶の香りが鼻をくすぐりはじめた。いつの間にかすぐ近くまで執事が忍び寄っていたのだった。
手の甲で乱暴に目を擦ってからアロイスは振り返る。差し出されたティーカップを、ソーサーは無視して両手で包み込むように受け取る。砂糖もミルクも入れないで半分まで飲んだあと、思い出したようにチョコレートを取り上げる。指先の熱ですこし溶け出すまで摘まんだままで、自分の口に入れる直前、
「そうだ。……屈んで、クロード」
「かしこまりました」
すぐさまティーセットが乗ったままのトレイを手にしながら、燕尾服の裾を乱すこともなく軽やかに執事が片膝をつく。
「顔あげなよ」
「はい」
腕を伸ばし、チョコレートを澄ました口元に押し込んだ。唇の端に溶けたブラウンがこびりつく。指だけ抜き出したあとに食べて、と囁いてやっと咀嚼、喉を大げさに鳴らして飲み込んだ。
「どう?美味い?」
「……甘いです」
「そっか」
どこからか再び立ち昇ってきた涙の気配を、頭を横に降って振り払った。