人魚
ただ、エドワードが笑ったのだ。顔を赤くしたまま、だけれどもおかしそうに。それに目だけでどうしたと問いかければ、オレ達玄関に座り込んで何してんの、と彼はおかしそうに言った。それを聞けば、違いない、とロイもおかしくなった。
そうしてふたり、笑いあって。
―――それから。
照れくさく思いながら、先に立ち上がったロイに手を引かれ、エドワードも立ち上がった。埃をはたいて家に入れば、西日が射してきていた。そのオレンジが眩しくて、思わず目を眇めたところで、腕を捕まえられたエドワードは、やさしくソファに引き倒された。
言葉もなく、ゆっくりと、口づけを交わした。何度も、確かめるように、そして重ねるごとに深く。少年はすこしも逆らわなかった。ただ恥ずかしそうに、初々しく笑っていた。
繋いだ指の熱さを、忘れたくないと願うほどに、近しく染まった。
「…痛むところは?」
あやすように、甘やかすように問われ、一瞬エドワードは言葉を失った。しかしすぐに思い出した。彼が、彼であって彼でないということを。だから今だけなら、自分も普段の自分でなくてもいいのだということを。…改めてそれを自覚して、嬉しさと切なさが同時に沸き起こったけれど、今はただ、先のことなど欠片も考えず目を閉じる。そして、甘えるように、けれど不慣れだから恐々と、男の白いシャツの胸元に顔を埋めた。
「…もう少し、眠るか?」
ロイは重ねて問う。それに、言葉もなく頷けば、少し乱暴に感じるような動きで髪を撫でられた。母とは違う、その大きな手。それに溶けるような感覚を抱いて。まどろみにエドワードは落ちていく。
微風がカーテンを揺らしても、ふたりが動くことはなかった。
ただじっと、労わりあうように、抱き合っていた。
ホークアイ中尉は、フュリーが告げたとおり、またロイの予想したとおり、二時過ぎに現れた。連絡とは異なり伴っていたのは医師が一人で、看護士はいなかったが、瑣末な事だ。
「…中尉」
「………、…エドワード君」
ぱちり、と彼女は出迎えた少年に不思議そうな顔を向け、瞬きひとつ。
「……?なに?」
「どうかした?…その、なんだか雰囲気が、今日は随分違うわ」
彼女はひたすら不思議そうに首を捻る。
「やっぱり疲れが出てきたのかしら?ちゃんと眠れていて?大佐はずいぶん無理を言っているのでしょう?…こう言っては何だけど、あんまり我儘をいう時は、ちゃんと断っていいのよ。あんまり甘やかすと癖になるから」
年若い少年にあれの世話を任せているというのが、彼女にとっては望んだ選択ではなかったのだと思い知らされる一言だった。
「え…い、いや、そういうん…じゃないよ。大丈夫、ありがとう、中尉」
へへ、と彼は照れくさそうにはにかんで首を傾げた。ならいいのだけど、と中尉はまだ不安そうだったが。
「…えらいいわれようだな…」
その背後から、憮然とした顔でロイが出てきたので、中尉も負けじと無表情を貼り付ける。
「いいかげん記憶を戻してください。負担が多くて困ります」
「……。そんなことを言われても」
どうやらフュリーが言ったように、確かに彼女は相当疲労しているらしい。ロイは苦笑いして場を濁した。
「…あ、オレ、お茶淹れてくるよ」
つられたようにエドワードも苦笑して、中尉と医師にリビングを示す。…示したが、しかし。
「…エドワード?」
歩いている途中で、ぐらり、と小柄な体が横に揺れた。
「…あ…?」
壁に激突する前に、長い腕が伸びてそれを防いだ。半ば呆然と、エドワードはロイの腕に抱き留められていた。
「エドワード君」
中尉は、らしからぬ少年の様子に目を丸くする。幾分慌てた表情で歩み寄ると、ロイの斜め後ろから少年の顔を覗き込む。
「大丈夫?すこし休んでいたら?」
「いや、でも…」
「そうだ、休んでいた方がいい」
ためらいを見せる少年に、ロイがやけに真剣な顔をして、ホークアイと同じ事を迫る。
「………」
「君が自発的に行かないなら、私が運んでもいいんだぞ」
返事をしない少年に、む、と眉間に皺を寄せたロイが駄目押しとばかり脅すと、エドワードは大きな目を更に見開いて、絶句した。ロイが「宣言はした」、とばかり少年の肩に手を回そうとするにいたるまで、彼は硬直していた。
「…や、休む、休むから!いいから、歩けるから!」
ぶんぶんと頭と手を振り、彼は身軽にロイの腕から逃れた。そしてそのまま、だっと数歩の距離を離れる。それから申し訳なさそうな顔を、ホークアイに向けた。
「…ごめん、中尉、じゃあ、オレ…」
「ええ。よく休んで頂戴。どうせ大佐は丈夫だし、すこしくらい放っておいた方がいいくらいだわ」
そんな少年に、にこり、と彼女は笑う。こき下ろされ、記憶喪失の男は複雑そうな顔をしたが、どこか無意識の領域には彼女に逆らうことの無意味が刻み付けられているらしくて、あえて何も反論しなかった。ただ、エドワードに、すまなそうな目を向けたくらいである。
「………?」
そんなロイを、怪訝そうな顔で見るホークアイ中尉がいた。
医師の診察と問診が終わり、帰り際。
よく気がつく女性を呼び止め、労いの言葉を掛けようとしたロイを、当の相手が遮った。そして、油断なく光る目を向け、容赦なく問い掛けて来た。
「…彼に何かしたのですか?」
内心舌を巻きながらも、ロイはそんなことをおくびにも出さず、不思議そうな顔をした。
「…何かとは?」
しらばっくれることに決めたらしい男を、じろじろと有能な女性は凝視した。なんとも、居心地が悪いことこの上ない。
…まして思い当たる節があるとなれば、なおさらだ。
「…、いたずらに彼の心を傷つけるようなことは、なさらないで下さいね」
「………?」
「まだ子供なのですから」
彼女はほんのり困ったように笑うと、では、私はこれで、と言って帰っていってしまった。…ために、ロイは結局、労い忘れたままになってしまった。
「…わかっているさ」
ぽつり、と、帰っていった彼女の背中に向けて、男は弱々しく呟いていた。
「………」
記憶がない以上、自分の過去の経験とやらと比べることは出来ないし、そもそもあったのかどうかも良くわからないけれど。だが、衝動のまま、気持ちのままに、抱いてしまった。…どう転んでも、最後に傷つくのは彼なのに。わかっているはずなのに。今の自分の不安定さというものは。
「…わかっているよ」
だが、この熱を鎮める方法が、ひとつも思い浮かばなかったのだ。触れたいと思う気持ちを忘れて閉じ込める術を、ただのひとつも持ってはいなかった。
そしてこれからそれを得る自信も、なかった。