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Vega

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Vega

竹林が、風に揺れてざわめいているのが聞こえる。
その涼しげな音に誘われるように、林冲は外へ出た。
 湖塞にも、矢竹の藪がある。細い竹をまっすぐに加工し、矢を作るためだ。さわさわと聞こえるのは、その葉ずれの音だろう。
 よく晴れた、夏の夜だった。暑いが、夜風が林冲の肌をひやりと撫でる。その感触も心地いい。
 空には、星が見えていた。光る砂を一面にぶちまけたように、無数の星が空を覆っている。一部分は、小さな星が密集し、白く煙って見える。
 息苦しいくらいの星空だ、と思った。
 人の気配がした。近づいてきたのではなく、空中から現れたかのように突然だった。それも、あるかなきかの僅かな気配。
 その気配を辿った。風が、林冲の背を押して吹き抜けた。星明かりの中に、人影が見える。林冲が想像したとおりの、痩せた後ろ姿。
「何をしている」
 その背中に声をかけると、ゆっくりと白い顔が振り返った。
「お前こそ」
 公孫勝が言った。少し目を細めて林冲を見る。
「俺は、涼みにきただけさ」
 公孫勝の隣に腰を下ろし、お前も座れ、と促すと、黙って林冲の言葉に従った。
 白い横顔が、星空を見上げている。
「星を読むのか」
 星の位置や輝きから、吉凶を占ったり、先を読んだりする学問がある。林冲には分からないが、宮廷の文官の中にはそういうことに長けた者もいるらしい。
「読まない。そんなことをしても、何も変えられないことのほうが多いからな」
「そうか」
 公孫勝の言葉の意味を、束の間考えた。何も変えられないという諦観の滲む言葉は、何を指しているのだろうか。
 二人とも、黙った。風が笹の葉を撫でる音だけが聞こえる。
 上弦の月が出ていた。月明かりが弱いためか、星が殊更輝いて見える。
「変えたいことが、あるのか」
 小さな囁きでも、この空間では雑音のようにうるさく感じる。
「すでに起きてしまった過去は、変えられない。例えば、死んだ楊志が生き返らないように」
「なるほどな」
 楊志、と公孫勝は言ったが、本当は二竜山で死んだ石秀のことを考えたのかもしれない、と林冲は思った。たしか、石秀は入山前からの、公孫勝の古い同志だった。
 もともとは致死軍にいたが、はずされた。その後に配属された二竜山で死んでいる。死なせてしまったと、思っているのだろうか。
 林冲にも、苦い、変えられない過去がある。
 妻のことを思うと、後悔や自責しか出てこない。生きているうちに、愛していると伝えてやることも出来なかった。
 過去は変えられないし、後悔が消えることもない。苦しさを抱きかかえたまま、生きるしかないのだ。
 忘れてしまえば、楽になれる。だが、どんなに苦しくても、忘れたくない過去もある。
「今夜は、乞巧奠(七夕)だな」
「女どもが、機織りや針仕事の上達を願う、あれか?」
「まあ、そうだな」
「まあ、って、まだなにかあるのか」
「神話だ。天に住まう夫婦の」
 牽牛と織女。天帝によって引き裂かれた、愚かな恋人たち。
 自分に、少し似ていると思った。愛に溺れ仕事を顧みなかった二人と、ただ志のためだけに生き、妻を顧みず、悲惨な末路へ追いやった自分。
 だが、牽牛と織女は一年に一度逢えるのだから、幸せだ。
「年に一度でも逢えるのだから、それも幸せだと言えるのかもな」
 思わず、公孫勝の顔を見た。
「なんだ」
「いや」
 たった今自分が考えたことが、公孫勝の小憎らしい口から出てきた。同じことを考えていたと思うと、なにやらくすぐったいような気になる。
「おまえにはいるのか、年に一度でもいいから逢いたい人が?」
 公孫勝がちらりとこちらを見た。暗がりでよくわからないが、いつも無表情な薄茶の瞳が、一瞬明るくなったような気がした。
「さあ、な」
 ほんの少し、公孫勝の声に笑みが含まれている。
「いるのか、いるんだな、女か?」
「教えるわけがないだろう。特におまえにはな、林冲」
「どういう意味だ」
 意地悪を言われて、不貞腐れてみせると、今度ははっきりと笑った気配がした。
 公孫勝と冗談を交わしていることが不思議だった。きっと同志の誰も、この男とこんなふうに語ったことはないだろう。二人きりの他愛ない会話が、なぜか心地よかった。
 夜風がまた、肌を撫でる。ひやりとした感触が、気持ちいい。
 きっと、公孫勝の白い肌も、夜風のように冷たいのだろう。
 なんの脈絡もなく、そんなことを考えた。林冲が口をつぐんだのに合わせたのか、公孫勝も何も言わない。今考えたことを公孫勝に悟られないように、と願いながら、天の河の傍でひときわ大きく輝く、金色の星を眺めた。

end
作品名:Vega 作家名:いせ