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三千世界の烏を殺し‐2-

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いつもそうだ。振り返りもせず、背中の残像だけ残して去ってゆく。正臣に供与されるのは体温の残滓と僅かな男の匂いだけである。それを、悔しいだとか、ともすれば淋しいなどと思ってしまいそうな自分に歯噛みしたい気持ちになった。出会った頃からずっと目に焼きついて離れないのは、鋭く美しい眼差しでも、光という光を吸入する黒髪でもなく、華奢な肢体を連想させない背中なのだ。

―「おかえり、正臣くん」

酷く冷たい冬の日だった。何度目かの脱走を試みて、また何度目かの失望を味わった。外は話にしか聞いたことのない黒く凍える北国の海を思わせるように暗く、ひゅうひゅうと締め付けられるような声で風が雪を攫いながら鳴いていた。その只中に正臣は放り出されていたのだ。激しい折檻に衰弱した身体を投げ出し、ただ声だけを習性のように探した。

(なんで、おれのなまえ)

忘れていた筈の記憶がどっと溢れかえる。押し寄せる海水のように正臣を侵すそれは此処に辿り着く前の出来事がまるで走馬灯のように断片的に映す。瞬きさえ許さぬ勢いに呼吸が止まりそうになった。母親も此処に連れてきた男も、一緒に行こうと契った男たちも、皆一様に白々しく薄れてゆく。後ろを振り向く期待すらさせず、あっさりと小さな掌を振り解く。嫌だ。置いていかないで。お願い、ひとりにしないで。誰か、誰か傍にいて。おれの名前を呼んで。おれを、此処から連れ出して。

―誰に願えば、叶うというのか。
期待など、とうに打ち捨てた筈だった。けれども握れば確かに馴染む体温が、幾度でも正臣に希望を模した憧憬を抱かせる。そうして冷えてゆく暇さえなくして、それらは正臣の前から姿を消すのだった。
いづれ失くしてしまうなら、最初から手にすることなど、もう。

苦しい息を吐き出して、空っぽの五臓が震える。それが笑いだと気づいたときには何故か視界が滲んでいた。温かな雫が頬を濡らす。どうしようもなく、生きている。まだ此処で、この狭い箱庭で、呼吸をしている。きっと、この先もずっと。

「君に新しい名前をあげる。明日から俺の部屋で働きな」

それだけ告げると、男は正臣を介抱するでもなくさっと背中を向けてその場から立ち去った。そうして雪を見ぬこの場所を夏になれば真っ白に染め上げるのだと言うこの花の名が、正臣の名前となった。

同じ年に正臣に名を与えた男は太夫となり名前を甘楽と改めた。外の世界など、望まない。最初から知らないのだから知りたいとも思わない。にべもなく告げたこの男のあってないような名前を知っているのは本人と正臣だけだった。




「い、ざやさん」

「おやおや寝言に他の男の名を呼ばれるとは。いくら私でも傷つきますねぇ」

口の端を歪めながら、少しも傷ついた素振りを見せないその男は柔らかな正臣の金髪に指を絡ませ、僅かに湿る額に口付けを落とす。月明かりの下で目に痛いほど白く光る、なだらかな肌はまるで正臣自身が発光しているのではないかと思わせる程だった。絹のようなそこを被せていた布団から暴けば血液の流れが見える首筋が目に付いた。普段、滅多とこのようなことはしないのだが綺麗なものを汚したくなるのは性でしかない。免罪符のような気持ちで、やや伸びかけた後ろ髪を梳いて上げながらうなじを露にする。そこに現れた先客に四木は露骨に顔を顰めた。殺気さえ感じさせる威圧感を持ってして紅く色づいた正臣のうなじを見詰める。寸刻ばかりそうしていたかと思えばそのままそこへ躊躇いもなく歯を立てた。

「・・・・・・ふぁっ?!い、いったい!痛いです四木さんっやめ」

明確に肌を刺す痛みに驚いて飛び起きた正臣が這うようにして四木の腕の中から逃げ出すまで、容赦なく加えられた傷口からは血が滲み出ていた。

「なんで、こんな」

息も絶え絶えに問いかける正臣に四木は笑いながら答える。

「いやぁねぇ、今日はこうして朝から訪れたわけですから、当然私が初めてだと思っていたんですが」

四木の言葉に混濁したままの思考を更に乱され、正臣の視界がぐにゃりと歪み始める。左手で押さえたままの傷が熱を持ち始めて熱い。そうだ。四木に噛まれたここは今朝調度臨也が唇で痕をつけた場所である。ちくしょう、あの糞野郎。口の中で低く呟き、正臣はさっと四木に向き直った。しかし咄嗟に上手い口上が出てくる頭もシラを切りとおせる精神力も持ち合わせていないので、姿勢はそのままに視線は下へと投げ出される。

四木という、一見して体格のよさを思わせるわけでもないのに、鷲や鷹と言った猛禽類のような獰猛さを滲ませるこの男は、上客も上客である。粟楠会という表でも裏でも名の通る任侠団体の構成員であり、ここら一帯を仕切る支部の幹部なのだ。その上客が何故太夫でもない正臣にこうして朝から通いつめるのか、それは解らないが水揚げのときから四木は正臣をいたく気に入っている。しかし、本来四木は臨也の客であったはずでそれは正臣も知っている。一時は旦那とまで噂されていた仲だ。正臣が臨也つきの振袖新造になるより前からこの遊郭に訪れている客なので、顔と名前は覚えさせられていたが、まさか自分を指名してくるようになるとは想像もしていなかった。

「いいんですよ。話さなくても、大体わかりますからね」

ただ、さすがに寝言はいただけない。そう小さく呟いた四木の瞳が間違いなく捕食者のそれになり、鋭く光る。
次には再び四木に抱き込まれるように正臣の視界は反転し、四木の肩越しに見える、届かぬ月を瞼に落とした。


作品名:三千世界の烏を殺し‐2- 作家名:如月