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【ネジカト】不可侵条約は期限切れ

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お嬢さんは飲み慣れないコーヒーを敬遠し、あろうことか通常コーヒー党のボクしかくつろぐことを許されないこの場所で、紅茶を所望してきた。まあ、いつもは来客用ににティーパックを用意してあるので彼女にとっては当然のことをしたまでだったのかもしれない。ここで彼女に紅茶を出したことも何度かあるから、いつでも紅茶が用意してあると思いこんだのだろう。しかし生憎運が悪いことに、今日はティーパックを切らしてしまっていた。無理ですねー。とへらりと言えばあっちは困ったように顔をしかめ、背中を丸める。そして恥ずかしいのだろうか小声でオレンジジュースに要求を変更したのだった。子供らしさを残した愛くるしいそれに思わず笑顔になってしまいそう。だけどそんなものがあるわけがない。ざんねーん。オレンジジュースも無いんだよね。そう言えばお嬢さんは拗ねてしまったのか少々投げ遣りな口調で尋ねてくる。
「じゃあ、コーヒー意外に何が用意できるの?」
「うーん……水かなあ。あ、でも、コーヒーもキャラメル風味にすれば甘くておいしいんだよー」
 ボクが誘惑すればすぐに彼女は揺らぐ。人差し指を口元にあて考え込む姿勢をとった。元々コーヒーが嫌いな性質では無さそうだからきっとすぐに落ちてしまうだろう。それでもしばらく好奇心と保守的な精神との板挟みで悩んでいるようだった。しかし結局お嬢さんはキャラメル風味のコーヒーを所望する。ボクの計算通り。
 席を立ち、台所でコーヒーを作る作業に取り掛かった。湯を沸かし、コーヒーミルで豆を粉砕する。独特の香りが漂う。キャラメルを作るための小鍋をコンロにかけるとき、ちらりとお嬢さんの方を見た。椅子に対して横向きに座る彼女は姿勢正しく背筋をぴんと伸ばして、興味深そうにしげしげとこちらを眺めていた。視線が合う。その時彼女がボクだけを見ていること気付いた。お嬢さんも諦めが悪い。気付かないふりをして目を逸らす。再びコンロの方を向く。
「コクランさんはコーヒー飲まないの?」
 お嬢さんが不服を訴えるより早く牽制球を投げる。すると、なにかを言おうとして開きかけた口は中途半端なところで閉じざるを得なくなった。じとりとした彼女の視線がボクを批判する。
「……ええ。彼は甘党だから苦いのが苦手なの」
 おお、これはいいことを聞いたのかもしれない。普段の仮面のように表情を崩さない彼からはスイーツを見て顔をほころばせる様子は到底想像できない。その上苦いものが苦手とは、子供のような味覚じゃないか。かわいらしいなあ。人は見かけによらず、ということなのだろうか。
「いい匂いね」
 キャラメルを作る間にお嬢さんがポツリと言った。「そうでしょ? キミならそう言うと思ったんだー。やっぱりキミはいい友達だよー」
「……」
 友達、と釘をさす。少しわざとらしかったかな。しかしこうまで言わないとお嬢さんは分かってくれない。何かしら反論があるだろうとは思ったけど、そうでもなくただ背中に鋭く痛いくらいの視線を感じた。きっと、あの大きな瞳にはうっすらと涙の膜が張られているのだろう。だけど気にしない。
 久しぶりに作ったキャラメルコーヒーは、自慢しても咎められないであろう程にいい出来だった。トレイに乗った二つの傍に砂糖とミルクも添えてテーブルに戻る。
「はい、どーぞ」
「ありがとう」
 何事もなかったようにお嬢さんはコーヒカップを受け取る。ソーサーもカップも温めてあったから、その時感じたひんやりとした冷たさは彼女の体温だったのだろう。温室育ちのお嬢さんは体温が低い。
 テーブルの真ん中に砂糖とミルクを置いて、彼女の向かい側の席についた。お嬢さんは角砂糖を三つも入れ、ミルクも注ぐ。甘過ぎないのだろうかと心配になってしまう。ボクの不安を知らない彼女はふうふうとまだ熱いコーヒーを気休め程度に冷ますと少しだけ口を付けた。ボクみたいに猫舌ではないらしく、熱いコーヒーもなんのそのらしい。一口飲み下すと音を立てずにカップをソーサーに置いた。
「少し苦いわ」
「その内慣れるよ」
「でも、美味しかった」
 にこり、と彼女はきれいに笑う。
「お嬢さんに満足いただけて嬉しいです」
 からかうようにそう言うとお嬢さんは眉間に皺を寄せた。
「その呼び方は止めてって言ったのだけど」
「……そうだったっけ?」
「誤魔化さないで!」
 とぼけるように尋ねれば、苛立ちを多分に込めた言葉がボクを貫く。お嬢さんは背筋正しく椅子に深く腰掛けて、ボクを恨めしそうに睨んでいた。もっと怒って帰ってしまえばいいのに。ボクはキミの願いを何一つとして叶えるつもりはない。キミのことを好きになることは疎かキミのことを名前で呼ぶことだってしたくないんだ。どんな理由であれ、ポケモンバトルが出来ない人間に僕は1ミリの好意も持てない。前にお嬢さんにはそう言ったはずだ。なのにどうして彼女はまだボクに期待しているのだろう。
「ボクの考えは変わらない。だから無理だよー」
 改めて彼女に言い聞かす。キミを好きには絶対になれない、と。
「……そう」
 悲しそうにゆれる瞳を見ても罪悪感はこれっぽっちも浮かばない。ポケモンバトルが出来ない子は(彼女の場合は特別な事情があるから、とはいえ)嫌いだし、学習しない頭の悪い子も嫌いだ。
 大分覚めてきたコーヒーを啜る。久し振りのキャラメルコーヒーだが、普段ブラックを飲み慣れているボクからすれば、飲み終わった後に中途半端な甘ったるさが口の中に残っていてとても不快だった。だけど。静かな深い色の水面を眺めながらふと思い、そして戦慄する。どうして僕は彼女にコーヒーを奨めたのだろう? 最初に思いついた通り水でもいいのに。そして、どうして彼女に合わせてキャラメルコーヒーを飲んでいるのだろう? 自分だけブラックでもいいのに。
「でもね、ネジキ」
 すん、とお嬢さんは鼻を啜る。いつの間にか泣いていたらしい。頬を伝う塩分を含んだだけの液体をこの時ばかりはきれいだと思ったボクは彼女に感化され始めているのだろうか。ああ、お嬢さん。ボクはキミが怖いです。
「何と言われようと、私はあなたのことが好きなの」
 涙声で語る彼女にすこしだけ胸が痛んだような、そんな気がした。頭がくらくらする。ボクはお嬢さんに同情しているのだろうか。それとも彼女を好きになりつつあるのだろうか。どちらにせよ、ほだされているのは確かだ。もう一度コーヒーを啜る。やっぱり甘苦かった。