愛は惜しみなく奪う
そろそろ蒸し暑いかと懸念していたのだが、それは杞憂に終わった。当分衣替えはしないでいいだろう。冷たい雨がコートの裾を濡らすことも厭わず、臨也は水溜りをスキップで避けながら帰路へ着いていた。
――おや。
マンションのエントランス付近にまるで打ち捨てられたかのように、小さく身を丸めている黄色い子供の姿を認め、口角があがるのが自分でも判る。しゃがみ込んだ状態の正臣に、駆け寄るでもなく臨也は殊更ゆっくりとした足取りでその住処へと向かう。
臨也はこのまま無視してみるのもおもしろいか、と頭の隅で算段を始めていたのだが手を伸ばせば触れることの出来る距離まで来たところで正臣の異変に気がついた。
「まっさおみくーん?」
軽く肩を揺すりながら名前を呼んでみる。自分に呼ばれる為にあるわけでもないその子供の名を。
しかし正臣はきつく瞳を閉ざしたままで臨也の呼びかけに応える術などまるで持たぬかのように世界と交渉を断絶しているのだった。
まいったなあ、と口に出してみたものの上がったままの口角を指摘する第三者は此処にはあらず。臨也は右腕を正臣の腋の下に、左腕を膝の下に差し入れ抱きかかえた。器用に口で咥えたカードキーをスライドさせ、人気のないエントランスへ乗り込む。それから部屋に着くまでの間、薄っぺらい子供の軽さばかりが気になっていた。喧嘩が強いと言えど正臣の場合、それは体格や腕っ節などではなくむしろその小柄な体型とそれを生かした才能に大きく起因しているのだ。まだ子供と言うに充分な年齢の少年は筋肉のつきも薄ければ骨格も未発達である。それにしても、と思う。それにしてもこれはちょっと軽すぎやしないだろうか。疎遠である妹たちを抱き上げた記憶は色褪せ滲んだものではあるが、静かに呼吸を続ける存在はあの少女と同じくらいに頼りなく、一抹の儚さと危うさを臨也に抱かせるには充分だった。掠り傷に侵された柔らかな頬を人差し指で撫ぜてから臨也は臨也の仕事をすべくデスクへ向かった。
夢を見ていた気がする。視認できるこのやけに高い天井が見知ったものであることに気づいて、それは余韻ごと正臣の脳から消え去ってしまった。
「気がついたかい」
双眸を見開いていると表現しても過言ではない正臣にわざわざ疑問形で言葉を投げかける臨也の性格に今更ため息を吐くのも嫌で無言で首肯した。
「いやあ、驚いたよ。捨て犬か何かかと思ったら紀田くんだったんだから」
「迷惑かけてすみませんでした。俺帰りますんで」
臨也の厭味をもろともせず正臣はすく、と屹立し踵を返そうとする。起きぬけの頭は酷く重いし、まだ体のあちこちが痛みを訴えているが、こんな処にいてはますます体調が悪くなる。否、場所の問題ではない。折原臨也とふたりきりでいるという事態が正臣の胸の内をざわつかせ、どろどろと不快な気分が喉元を脅かすのだった。
「まあ、待ちなよ」
今日の天気とは正反対の青空を思わせる声に威圧感の欠片も見つけることは出来ないのに。足が止まる。この男の口にする言葉は正臣にとって呪文以外のなにものでもなかった。それは善い結果をもたらすときであっても、或いはそれ以外のときでも。
「君が眠っている間ふと思い出したんだけど、もうすぐ誕生日だよね」
最早なぜ知っているのかなどという愚問すら浮かばない正臣は、なんら疑問を抱くことなく臨也に首肯した。
「誕生日プレゼントは何がいい?」
くるくると回転椅子を回しながら問いかけるやたらと上機嫌な男に薄ら寒さを感じながら、真意を汲もうと真っ直ぐに男の目を見る。
(そんなふうに真っ直ぐ向かってくるなんて戦略としては最悪だよ、特に俺みたいな人間を相手にするときはね。だからこそ俺は君のことが好きなのさ)
「何でもいいんだよ?俺は大抵のものは用意できるし」
「要りません」
間髪入れずきっぱりと切り捨てる正臣に臨也は苦く、しかしやはり嬉しそうに笑いながらまあまあと諌める。
「要らないとしても、もう少し此処にいなよ。まだ外は雨だし、どのみち今日はひとりなんだろ」
「沙樹と会うんで」
「会えるの?」
「どういう……」
動揺をそのままに蜂蜜を湛えた水面が揺れる。華奢な肩まで凍えさせる正臣に臨也は得意げに口を開いた。
「沙樹から電話が着てた。君、彼女と喧嘩したまま飛び出したそうじゃない。大方その流れで絡んで来る輩をよく見もせず片っ端から相手にしたんだろう。でも今回は相手が悪かったね。下っ端の下っ端でも粟楠会の構成員と来たもんだ」
臨也の出した粟楠という言葉に正臣はあからさまに狼狽した。そんな正臣に弟の失態を愛おしむかのような目線を投げかけ、臨也はまた笑う。
「大丈夫。紀田くんには俺がついてるじゃない。今回の件だって何も気にすることはない」
「それで、誕生日プレゼントは決まったかい?」
臨也の言葉にしばし逡巡する。やがて自嘲を伴って吐き出された言葉は掠れてささくれ立ち、まるで本音のようだとそれを口にした本人すら恐々と底冷えする思いに陥らせた。心臓の裏側はこれ程までに寒々しいのに、言葉を吐き出した舌が、喉が、嘘みたいに、熱い。
「……あ、いが、ほしい、です」
正臣の言葉を一笑するでもなく、刹那目を見開いた臨也は大仰に頷いた。
「俺があげよう。君が望むなら」
(――俺があげよう君が望むならいくらでも)
まるで三流ドラマのワンシーンに出てきそうな気障ったらしい台詞であるが、この男の口から滑り出るそれは月光の下で甘美な芳香を放つ花で。正臣はそれにまんまと誘われふらふらと寄っていく蝶のようであった。たとえ花だと思っていたそれが、毒蜘蛛の張り巡らした罠だと知っても尚、拠り縋ってしまう。
そんなことを思索する正臣に関係なく、臨也はマイペースに着々と衣服を緩めていく。
「あ、のっ」
「なあに?怖気づいた?」
ニヤリとあからさまに馬鹿にしたように見下げられ正臣はさっと頬を上気させる。
「そんなわけっ!」
きっ、ときつく見上げる潤んだ目尻に尚も臨也は言葉を続ける。
「あ、そう。でも止めるなら今のうちだよ?後悔したって俺は責任とか、取らないから」
「後悔すんのはあんたじゃないっすか」
俯きながら問うた正臣に答えることはせず、臨也は代わりに露となった白い項に頭を埋める。皮膚の下でざわめく血潮に
舌なめずりし、噛み付きたい欲求を抑えて強く吸い付いた。水音と共に施される初めての刺激に、正臣は思わず
高く声をあげる。一瞬瞼の裏が暗転し、火花さえ散ったように思う。
「こんなんじゃ先が思いやられるなあ」
「……う、っさい!」
ふるふると太陽を連れている金糸を振り乱し、続きを促すようにぎゅっと強く臨也の腕に縋りつく。五つの小さな貝殻は可愛そうなほど震えていた。
「愛してるよ、正臣くん」
口には出さずささやかに呆れながらも、頭の隅は本能と衝動に突き動かされていることを知りながら、それでも気づかないふりを押し通して臨也は正臣を抱いた。