朧に幕引く闇夜に烏
濡れ縁で、着流しの裾をだらしなく肌蹴させ片膝を立てる政宗の眼前に、月が翳るのと同時にすとんと影が落ちた。
夜陰に潜む暗がりの延長のようなただ影の気配に、政宗はにやりと口端を持ち上げる。
容易く手の触れる距離で佇む暗がりの気配に身を窶したその影は、じっと政宗を見下ろして微動だにしない。人の気配と言うには希薄すぎるそれの、より濃く色を落とす輪郭を辿り、陽の光の下では、或いは闇の中でさえその職務に障りがあるように常々思う鮮やかな頭髪と同じか、僅かに薄い色をした瞳があるだろう辺りを見上げる。表情は窺えない。戯れる雲の隙間から零れるほんの少しの月明かりでは、どうしたところで目の前の影から色を得ることはできない。政宗は気に入りの鬼灯のような髪色を判別できぬことがやや惜しいと思った。
掌中に収めた杯を干す。寝酒にと小十郎の目を盗んでくすねておいた辛口の純米酒が舌先をピリピリと刺して喉を滑り落ちた。清らかで濃厚な酒精の芳香が鼻腔を満たし、今年の酒の出来栄えに束の間充足感に浸る。
自酌の為に徳利へと伸ばした手を冷たい鉄の感触がやんわりと押しとどめた。政宗は内心だけでにぃと唇を歪める。さて、この忍は、一体全体こんな敵城の奥深くまで何を求めてやって来たのやら。城主に姿を晒してしまっては諜報活動も捗々しくないだろうに。各地へ放ってある黒脛巾組からきな臭い報告を受けた覚えはない。であるから、城主の首というわけではなさそうだ。ひたすら沈黙を守る相変わらずの気配からも殺気は感じ取れない。同様に敵意も悪意も無かった。もっとも、殺気を放とうものなら、政宗の忠臣が一目散に駆けて来て政宗の眼前に蟠る凶事を切り捨てようと躍起になるに違いないのだが。政宗にとってはあまりにもなその予想は、予想というには現実味を持ちすぎている。
二人の間に落ちる沈黙ばかりをたなびかせ、す、と影が動いた。
緩やかな空気の流れを微かに乱して常闇に染め抜かれた指先が一本政宗の方へと伸ばされる。その指先を目で追った。辿り着いた先は政宗の頬で、手甲で覆われた尖った指先が縦に線を描くように往復する。辺りに漂う酒精の残り香が政宗の気分を寛容にした。加えて愉快でもあったので、その押しつけがましくない指先を許容してやった。意図など政宗の知るところではない。俄に火照る頬には、だがその温度のない鉄の感触よりも、通り過ぎる風の方が心地よかった。
一定の距離以上近付こうとしない影を招き寄せるつもりで政宗は無防備な喉元を晒した。目前の気配が初めて戸惑うように揺れ、耐えきれず政宗は喉を鳴らして笑う。ああ、愉快でならない。あまつさえ、憮然とした気配まで漂い始めては、ますますもって笑いが止まらなくなった。滑稽だ。忍のくせに煩い男と認識してはいたが、沈黙した気配ですらこうも煩いのではやはり忍には向いていない。
暫く佇んでいた影が政宗が笑うのにまかせて距離を詰めた。ひどくあり得ない距離で、二人の瞳は邂逅を果たす。やはり、陽の元で主と忍に有るまじき狂態を演じるときに見るあの鬼灯の髪色が露わでないのが、政宗は惜しいと思った。
男の陰影の背後に広がる夜空では、さらりとした雲が流れるままに移動している。
月が幾重もの厚い衣を脱ぎ捨て、再び皓々と溢れる顔を見せ始めていた。
――右目の旦那が来るよ。
囁いた吐息が政宗の唇を嬲り、喉を震わせ一つ瞬く内、眼前には変わりない月明かりが庭を照らしていた。
気配は去っていた。