つみあう夏
明かりのともる玄関を抜けながら、彼はぽつりと一言呟いた。
「お前の庭が見たい」
この男はガーデニングが趣味だと聞いた事がある。何か面白い物や彼の参考になる物でもあっただろうかと思わず面食らった。しかしポーチに出るとすぐ、ここ数年ですっかりお馴染みとなったあの香りが鼻先をかすめて、そこで初めて合点がいった。そういえば家に招き入れた時も、彼は一瞬何かを探すように玄関横の芝生の先へ視線を走らせてはいなかったか。
夏ばらは今が盛りだ。
つみあう夏
案の定彼は、香りのより強い方向へと一直線に庭を横切る。ああ言った割には脇のベゴニアには目もくれず、最初から思ったままの事を言えばいいのにと背後からこっそり苦笑いを送った。静かな真夜中である。さくさくと芝生を踏む足音は、二人分だからなのか、辺りが暗いからなのか、いつもより存在感を増している。
庭の一角で、俺と彼は足を止めた。
「――綺麗に咲いてるな。よく育ってる」
彼は目の前にこんもりと生い茂るばらに更に近づいた。
「こんな暗いのに分かるん?」
「当たり前だ。何十年もこいつらに付き合ってるからな」
俺の声音につられたのかもしれない。ばらに夢中な彼の顔は見えなかったが、その声は少し可笑しそうだった。彼はそのまま花弁を撫でたり、指の腹でそっと葉をつまんだりしていた。そして不意に、庭が見たいと言い出した時のような唐突さで「意外だ」と漏らした。
「何や、こいつが俺の手に負えへんと思た?」
「そうじゃねえよ」
彼はばらから目を離して俺の方を向いた。小さく肩を竦めたのも、そこに表情が無かったのも、薄明りを通してはっきり見えた。
「ただ――俺がやった花だから、もうちょっとぞんざいに扱われてると思ってた」
+ + +
彼からばらの鉢植えをもらったのは、確か7、8年前の誕生日だった。
あの時はまだ2月で、蕾すら付けていなかったそれを俺に手渡しながら、夏になればピンクの花が咲くと彼は教えた。もっとも、『そいつは相当肥料を食うからな。せいぜい家が傾かねえように気を付けろよ』とか何とか、厭味ったらしいことこの上ない祝辞をついでに押し付けられた記憶もあるが。
けれど、そのばら自体は実際とても可愛らしかった。しっかり世話をしたし、花の咲いている時期にロマーノが遊びに来ればわざわざここへ連れてきて見せたりもした。あの子がそんな俺にいつかの姿を重ねたのか、『お前ってほんと変わんねえな』と呆れていたのを覚えている。
むしろこの花を愛でていると余計に自分の変化を実感するのだとは、さすがに打ち明けられなかった。
俺自身なるべく触れないようにしてきた事だった。昔の自分ならこんな物を彼から贈られた所で突き返すか、受け取ったとしてもその日のうちに焼き払ってしまっていたに違いないのに。それでも俺は結局、2月のあの日、寒い中庭に出て土を柔らかくした場所に小さな苗を植え込んだ。
成長したおかげだと思う。時勢は穏やかになり、自分の気性も言われるまでもなく丸くなった。それに、本心の有無にかかわらず誰かを喜ばせるように振舞うのは昔から得意だったじゃないか。
そうやって一応結論づけてはいたが、本人に面と向かって指摘されるというのは存外ぐさりと来る物だ。
+ + +
「あほやなぁ」
俺はからから笑う自分の声に集中していた。
「俺がムカつくんはお前だけや。ばらに罪はあらへん、せやろ?」
何気ない風を装って答えながら彼の様子をうかがえば、彼は一呼吸の間を置いて、無表情だった顔を笑みの形に崩した。皮肉混じりの、いつもの顔だ。
「ああ、全くだ。こいつを見ててよく分かった」
そして去り際にもう一度、たっぷりと花弁を付けたその花に目をやった。
彼は玄関を出た時からずっと、来た時に持ってきた書類鞄に荷物をまとめて持ち歩いていた。それで薄々予想はついていたが、どうやら夜も更けた今から一人で空港へ向かうつもりらしい。
門の前であっさり別れを告げる彼に、俺は我慢できず玄関での言葉を繰り返した。
「なあ、ほんまに泊まってかなくてええん?」
「夜中の移動は慣れてる。一人で平気だ」
「せやけど、こんな時間に仕事で呼び出してもうたの俺の方やし、せめて空港まで送るくらいはせえへんと気ぃ済まんわ」
治安のいい場所ばかりこの男が選んで通れるとも限らない。しかし、彼は取り合わなかった。
「『俺がムカつくのはお前だけ』、だったか?」
「へ?」
俺は呆気にとられた後、吹き出しそうになった。
まさかあの言葉を蒸し返されるとは、普通に流してはいてもやはり引き合いに出す程には根に持っていたようだ。厭味の一つでもかまされるのだろうと、内心で軽く身構えた。
ところが、彼の顔にはそこにあるはずの怒りは欠片も見当たらなかった。それどころか。
「聞いてて笑っちまったよ。あんな花に賭けたりした俺が馬鹿だった。お前はそのままでいい。お前のそういう所まで無くさないで欲しいと思うなんて、俺はもう駄目だ」
彼は街灯の下を歩いていく。後ろ姿はやがて消えて、あのばらの香りはここまで漂ってはこない。
けれども俺は立ち尽くしたまま、最後の言葉を告げる彼のどこか虚ろだった事ばかりがいつまでも反芻され続ける。それはいつしか、全てを捨てたようなあの表情でもう駄目だと彼に縋る自分の姿にすり替わっていた。動けなかった。動けない俺の中を眩暈が通り過ぎても動けなかった。暑い。