ロンドン・トワイライト
ロンドン・トワイライト
ソファの上で目を覚まして、そうだここは自分の家でなかったと思い出すまでに二、三秒かかった。マドリッドの自宅でのんびりと休んだ朝には決して訪れない神経の緊張が、本調子でない頭の底に倦怠感と合わさってどろりと溜まり、嫌でも意識はその分だけ重みを増す。
立ち上がり、音を殺してカーテンを開ければ、ガラス越しのロンドンは夜明けだった。街は眠っている。街の眠りは人々の眠りでもある。市民たちにはきっと、建ち並ぶ家々の中の一室で愛する国が人の形をして、ベッドの中に丸まっているとは想像もつかないだろう。
窓の外からそのベッドへ視線を移した。視線の先で、彼もまた昏々と寝入っていた。
『今晩だけでいいからイギリスの面倒見ててくれない? ほら、今またあれが来てるんだけど、俺どうしても外せない用事が出来ちゃってさ…』
珍しく低姿勢で頼んでくる幼馴染に、気が進まないにもかかわらず一個貸しだと脅してやれるほど俺は非道にもなりきれなかったらしい。結局情け一つで引き受けてロンドンに赴いた、それが昨日の夕方の話だ。
ここ最近のイギリスは、一言で言えば荒れている。盛大に。あちこちでその刺々しさや冷酷ぶりを発揮しては周囲を震え上がらせる一方で、突然体調を崩して何日も寝込むことを繰り返している。倒れたイギリスに付き添うのは、決まってフランスの役目だった。
ほんの十数年前、アメリカを前にして雨の中で泣き崩れた時に、何かが壊れたとしか思えない。
あの時欧州の中では一番アメリカの肩を持っていたフランスが、なぜ今率先してイギリスの世話を焼くのか訊いた事は無かった。何となく分かるのは、二人が互いに、何かしらの了承のもとでそういった関係にあるという事だ。
少なくとも、俺がイギリスの家にいる経緯とはわけが違う。
壁にくっついたソファに腰を下ろすと、目の前のベッドを含めた部屋全体に自然と目が行く。小さな部屋だった。あらゆる目から身を隠そうとするように余計な装飾物は一切取り払われて、単純な輪郭にかたどられた家具達にも、毛布から覗く金髪にも薄闇が塗り被さっている。それらは視界の中に、ある物は黒く、またある物は淡くぼんやりと収まっている。
何も考えず眺めているうち、唐突に、外に見えた景色が頭をよぎった。青。霧。混ざり、街は底に。この部屋も同じ。青。静寂。海の底。沈没船の気分だ。沈没船 ――――。
「…」
我に返って、くしゃくしゃと前髪を掻いた。間の悪い飛躍だ。海の底に二人で、なんていう想像は余りにも笑えない。それに、せっかく頭から押しやっていたのに、眠るイギリスを触媒にして昔を思った瞬間にまた、ちくりと齟齬の存在に触れてしまった。
記憶と記憶の間や、記憶と目に映る物の間、ささくれはいたる所に潜んでいる。もう何度目かの痛みに、何度目かの責められたような気持ちを同じように噛み締める。
愛情であれ何であれ、時が経てば目に見えない所で少しずつ形を変えていく物で、枝分かれした道の途中でその感情の名前が変わる事だっていくらでもあり得る。分かっていてなお、憎悪と呼ばれる物の中にいつまでも安住したがっているなんて、臆病者もいいところではないか。
出口の無い、後戻りできない道が、恐ろしいだけだ。
俺の手は、無意識にベッドサイドの洗面器に入った濡れタオルへ伸びていた。水から取り出して、絞って、額に当てる。その動作の最中に、身じろぎの音が聞こえる事を不覚にも全く予想していなかった。
「ん…」
もぞりと毛布が動く。タオルを持った手が揺れた。心臓は一体今まで何をしていたのだろう。
夕方から眠りっ放しだったイギリスは、俺がフランスの代わりにやって来た事を知らない。目を覚ましたらどう相手をすればいいのか、今になって初めて本気で頭を巡らせていた。しかし、頭で答えを捻っている最中にイギリスの顔がこちらを向いた時、俺は目元がふと緩むのを感じた。
何が自分をそうさせたのかに思い至るよりもずっと早く。
「イギリス」
「…!」
「おはよ、イギリス。よう寝とったなぁ」
穏やかな自分の声を聞きながら、一歩遅れて焦燥が一気にせり上がってきた。今、笑って、その先をどうするというのか。日が昇りきる頃には―――遅くとも数日も経てば、また何事も無かったかのように睨み合うだけの関係に戻っているに違いないのに。こうしている間も、頭をもたげた冷たい衝動の重さを見て見ぬ振りなど出来ずにいるのに。
ただ、幼い頃妖精が見えると真っすぐ言い張っていた瞳や、戯れのキスで面白いほど染まった頬や、翻された背中の一瞬の脆さや、幾つもの些末な出来事を次々と呼び起こさせるようなどこか懐かしい表情を、イギリスはしていた。そんなどうしようもない理由で、今更他に方法が思い浮かばないのだ。
「スペイン…何で……」
イギリスの声は小さく震えて途切れた。仄暗い中、目いっぱい見開かれた眼の奥深くにまで、深い青が流れ込むのを見た。
作品名:ロンドン・トワイライト 作家名:二束三文