終わりに咲く華
「覚えているか、幸村」
振り向くと、そこには、普段政務に向かうときと同じ小袖を身に纏った三成が立っていた。そこで初めて、幸村は自分が縁側に座って庭を眺めていたのだと気付いた。
三成は常のような厳しい仏頂面ではなく、ひどく穏やかな顔をしていた。優しい、幸村にとっては既に見慣れたはずのそれが妙に懐かしくて、胸の奥が疼いた。そんな幸村の心情を知ってか知らずか、三成はそのまま彼の隣に腰かけた。足をぶらぶらとさせるのを、幸村はぼんやりと眺めていた。なぜか言葉が出てこない。
しばらくして、三成は足を動かすのを止め、桜を見上げ指を差した。
「覚えているよな、何年か前の春だ。あそこの下で、小さな宴を催しただろう」
覚えている。
言葉にできないことにもどかしさを覚えながら、幸村も同じように桜を見上げた。風もないのに花びらはくるくると舞い落ち、さらに不思議なことに、どれだけ散っても満開のままで花が減る様子もない上に、それ以上土の上に薄紅が積もる様子もなかった。そこだけ時が止まっているかのようだ。
「初めは俺とお前の二人だけで呑んでいただけだったのに、途中で兼続やら前田やら、終いには左近やねね様まで乱入してきたアレだ。兼続と左近が酔い潰れて、兼続は前田が運んで行ったから良いが、左近は面倒くさいから置いていったら次の日風邪を引いたな。見た目に似合わず軟弱な奴め」
ふん、とそのときの様子を思い出したのか、小馬鹿にするように三成が笑った。
「…私が、部屋までお運びしましょうかと申し出たのに」
幸村がやっと絞り出した声にも、三成は鼻で笑った。
「お前にまで酒臭いのが移ったら嫌だったのだよ」
「私も相当呑んでいましたが」
「お前は良いのだ」
無茶苦茶で理不尽な物言いが彼らしくて、幸村は笑った。
「やっと笑ったな」
ふっと目を細めて、三成が微笑んだ。
やさしいやさしいはずのその声が、胸の奥へと染み込み、痛みに変わっていく。
「お前はずっと、笑えていないようだったから」
その声にふと横を向くと、三成は立ち上がっていた。
少しだけ悲しそうな、穏やかな顔が、声が、幸村の心を凍らせる。
するすると三成は桜に向かって歩いていく。止めたいのに口は開かず、追いたいのに縫い止められたように身体は動かない。
桜の木のすぐ手前で、三成は足を止め、幸村を振り返った。悲しげな、寂しげな顔をして、それでも唇は笑みを形作って。
「俺はもういないのだよ」
手を伸ばして何かを叫んだ気がする。徐々に意識が白いでいく。
「さようなら、幸村。お前に会えて、俺は確かに幸せだった」
目の前の桜がぼやけてよく見えない。
頬を伝っていくものに指で触れて、幸村は己が何年かぶりに泣いていることにようやく気付いた。
儚げな薄紅の花はとうに散り、今はその枝に、活力に漲る青葉が茂っている。幸村はぼうっと、それを眺めた。
「不甲斐ない…」
(三成殿、あなたにまで心配を掛けてしまった)
(申し訳ありません。それでも、私は)
頬を手の甲で拭い、しっかりと桜を見据える。美しく儚い、しかし何度でも蘇るあの花を、見ることは恐らくもうない。
もうすぐ、戦国が終わる。
誰もが願ってやまなかったはずの世界を見ることも、もう。
(私は望めなかった。ずっと前から)
たった一人の主を。かけがえのない絆を、失くしたときから。
「私は、最後まで私であり続ける為に、いきます」
咲いた花は、あとは散るだけ。
けれど人は桜ではないから、たったの一度、これと決めた時に咲いて、散るために。