銃を取れ
男が目指した人の家は目の前にあったが、もう男の体は動かなかった。そもそもその人が在宅かどうかすら分からない。男は着の身着のまま、ほうほうの体で元いた「巣」を捨ててきたのだ。一晩の宿として頼れる場所すら、男はここしか思い付かなかった。追手はまいたがそれも数時間もつかどうか。
鼻腔を冒す蘭の匂い。視界に広がる雛菊の茎。こういう所を楽園と言うのかと男はぼんやりと思った。それならなるほど、死ぬのもそんなに悪くない。花の色をもっと目に焼き付けようとするが、その度視界に入った自分の手のひらにこびりついた血を幻視する。もう疲れていた。生きてここまで辿りつけただけで十分だ。ついにそこまで考えて男は瞼を下ろし―――直後、聞こえた声に目を見開いた。
「お前……」
その男を掬い上げたのは、素っ頓狂な声と日に焼けてごつごつとした腕だった。
死力を尽くして見上げたその人物が記憶より幾分老いただけのように見える意中の人物であると知った時、男は久しく忘れていた神の存在をもう一度信じてみようと思った。