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美しい人生

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水が、樹璃のなめらかな背中の上を、つぎからつぎへと流れていく。あたしはバスタブのへりに腰掛けて、片膝をかかえて、その様子をじっと眺めている。あたしはブラウスを羽織ったまま、シャワーを浴びるでもなく、湯船に入るでもなく、ただそこに座っているので、バスルームの中であたしだけが、なにか間違えてしまったみたいに見える。それでも彼女はあたしを追い出そうとはしない。トリートメントを流しながら、ちらりとこちらを振り返って、すこし困ったような視線を向ける。それから顔を戻して、なんでもなかったように体を洗い始める。
 あたしが着ている白いブラウスは樹璃のものだ。袖も身頃もゆったりしたつくりの、装飾のないシンプルなブラウス。すこし落ち着いた年齢の女の人が着るとよく似合うようなデザインだった。
 水と石鹸のしぶきが白いブラウスの裾を汚す。かまわない、とあたしは思っている。どうせこれを洗うのは樹璃とは違う女の人だ。汚れたブラウスは知らないうちにどこかへ持っていかれて、知らないうちに、真っ白になって帰ってくるのだ。それはもう、汚れたことなんて一度もなかったみたいに。
湯気のむこうにすこし俯いた樹璃の背中がある。あたしは飽きもせずにつくづくとそれを眺めている。
 1年前、樹璃は全日本5連覇の記録を残してぱったりとフェンシングを辞めた。大方の予想に反して、更新の育成に当たることもせず、業界から完全に身を引いた。引退を考える年齢に差し掛かってきたとはいえ、まだまだ現役を続けられるだけの力があるのにと、惜しむ声はいまだに後を絶たない。それでも当人がためらいを見せることはなかった。もう若い人たちの時代だと、穏やかな声でひとこと言って、あとは多くを語らなかった。
フェンシングを辞めて彼女の生活はいっそう内省的になる。読書と音楽鑑賞、それに一日おきの、取り立てて目的のないランニング。軽い運動は続けていたが、現役選手時代とは量が違う。
 樹璃の背中の、痛々しいほどになめらかで引き締まった輪郭が、怠惰な日々を経て、すこしずつ、緩みはじめている。
 ずっと眺めていたから、あたしにはそれがよくわかる。
 この人は実際の年月よりもずっと急いで、歳をとろうとしているみたいだった。


 細くてやわらかな樹璃の髪は、一度洗うとすっかりゆるんでしまう。それを丁寧に乾かして、巻き直すのが、あたしは好きだった。あたしはとうとうこの歳まで、髪を肩より長くしたことはないし、自分の髪を巻くような女でもなかったけれど、樹璃の髪の毛をいじるのは好きだ。
 「枝織」
 うしろ髪を丹念に巻いていたあたしに樹璃が声を掛ける。痛かったですか。そう告げて鏡の中の樹璃の顔に目をやった。樹璃は鏡越しに、なにか訴えるような瞳をあたしに向けてくる。この視線。ふたりで暮らすようになってからしばらくして、樹璃はあたしに話しかける前に、こうして見つめる時間をたっぷりと取るようになった。見つめることで、あたしになにかが伝わると思っているみたいだった。なにかを理解することをあたしに期待しているみたいだった。彼女が頭の中でどんなシナリオを描いているのか、あたしには分からない。けれどこの瞳には見覚えがある。もう十年以上前、学校の廊下でたびたび出会った、あたしを諭すような女教師の瞳に、それはよく似ている。
 「どうしました、樹璃さん」
 樹璃は彼女の肩に触れていたあたしの手の上に、自分の手をそっと重ね、ゆっくりと振り返って、言った。
 「笑ってくれないか」
 十年以上の時を経て、この人の頭の中は、いまだにお花畑なのだ。
 「笑っていませんか、あたし」
 「そうじゃないよ。そういうことじゃないんだ」
 樹璃は俯いて首を振る。笑っているのか、怒っているのか、よく分からない表情をしている。
 「昔は……小さい頃は、私たちはもっと、よく喋って、笑っていただろう」
 「――」
 あたしは思わず、すこしだけ声を立てて笑ってしまった。
 昔のことから逃れたがっていたのは、いつだって、あなたのほうだったじゃありませんか。


 ある朝、目を覚まして、あたしは隣にあるべき人の気配がないことに気づく。体を起こしてみると、ベッドの半分はからっぽだった。皺一つ寄っていない上掛けは、もうすっかり冷たくなっている。あたしは枕元に白い小さな封筒を見つける。表に、枝織へ、と、神経質そうな細い字で書かれている。
 封を開けなくても、あたしには、なんのことだかすぐに分かる。それはとても陳腐なサインなので、あたしじゃなくたって、誰が見てもきっとすぐに分かる。
 まだ空の暗いうちに彼女は出ていったはずだ。あたしに気づかれないように、こっそりと荷物をまとめて。真っ白なブラウスをトランクに詰め込んで。いまどこにいるのだろう。逡巡して庭をさまよっているか、駅のホームで列車を待っているか、それとも、やさしかった男の面影を追いかけて、黄泉の国へでも行ってしまった?
 あたしは封筒を胸に抱える。両手が震えている。ベッドを出て、テーブルの上の、古いアンティークの電話機に手を伸ばす。とても古めかしい、置物みたいな電話だけれど、ダイヤルを回せばきちんと望むところへつながると、あたしは知っている。
 あたしは受話器をとってダイヤルを回す。脈打つ音がはっきりと聞こえるくらいに、心臓が高鳴っている。あんまり手が震えるから、二回ほど指が滑って、そのたび受話器を置いてまた掛けなおした。三回目で電話はつながる。コール三回で、彼はちゃんとこたえてくれる。
 「もしもし、冬芽先輩? お久しぶりです、あたし、枝織です。ええ。ごめんなさいね、こんな早くに。お休み中でした? そう。でもね、あたし、いま、とても素敵なことがあったんです。最高におかしくて、素晴らしいことがあったの。どうしても先輩に聞いていただきたくって、それで、ついお電話してしまったの……。」


 完璧だ。
 あたしの人生は、なんて美しくて、見事で、完璧なのだろう。
作品名:美しい人生 作家名:中町