ヴィヴィッド
元々好きでもない姉妹達に対してはともかくも、お父様に対してすらだ。
水銀燈は、だからすこし困惑している。
世界は自分と「お父様」だけで成り立ってきたし、これからもそれだけで完結して行く筈だった。
この、消えてしまいそうに弱々しい少女。
彼女のことを水銀燈は。
「どうしたの?」
「何が」
怖いくらいに赤い夕暮れだった。
つまらない病室に、赤い光が浸蝕している。清潔ぶったカーテンも壁も、呆気なく染まる。水銀燈は血みたいだと思いながら、その光を眺めていた。
昼間よりも冷たい風が、開け放した窓から入ってくる。
一瞬、めぐの身体に障るのではと考えた。ベッドに収まる少女は、わずかな刺激によって簡単に体調を悪化させる。それを水銀燈は、彼女の傍らで目覚めてから何度も思い知らされた。
けれどすぐにそんなおのれの思考を苦々しく思った。
どうして、心配なんか。
ちょうどそのタイミングだった。
めぐが、水銀燈に声をかけてきたのは。
「なにがって……さっきから、怖い顔をしているんだもの。折角きれいな顔をしているのに、勿体ないわ」
「別に……」
時折寄せられる賛辞を、少し前ならばくだらないと切り捨てていた。それが今では宙ぶらりんのままにすることしかできない。
気付かれぬようにそっと、彼女を見やる。
まっすぐに伸びた漆黒の髪が、つやつやと肩から背中に流れている。まるで、彼女の絶望の深さをあらわすように。
一見外で見る人間とさほどの変わりは無いようなのに、めぐの身体には命を脅かす程のどうしようもない欠陥がある。
それでも、絶望色の髪は水銀燈の目にはうつくしく映った。
きっと同じように歪んでいるから。だからこんなにも、近しく得難いもののように感じてしまうのだろう。
「ねえ、水銀燈」
「……何よ」
「血みたいね。怖いけれど、美しいわ」
一瞬の愕きを、水銀燈は飲み込んだ。同じように感じていたなんて。自分もこの少女も、惨酷な連想しかできないのだ。なんて莫迦みたいなのだろう。
「そういえば、人間って血を流すんだったわね。莫迦みたいに」
「ええ」
めぐが、ゆったりと微笑んだ。見慣れた表情だ。何かを諦めたような、少女らしからぬ笑み。
不穏な気配を感じ取って、水銀燈は知らず彼女を見つめてしまう。
めぐは、右手で自分の腹の辺りをさする。その体は、やはり清潔そうなパジャマに包まれている。彼女は紛れも無くこの病室の一部なのだ。自分はどうなのだろうと水銀燈は考える。
闇を背負わされたドールが、ここに在ることは許されるのだろうか。
「わたしのなかにも、こんなに哀しい色が溢れてるのね。そう思ったら、この体も嫌いになれないわ」
「哀しい?」
「そうよ。だって生かされているのだもの。こんなに鮮やかで毒々しいものを抱えることでしか、生きられないの。そう思ったら、哀しいでしょう?」
そうかもしれない、と思う。
ふわ、とまた吹き込む風にめぐがそっと髪をおさえた。さらさら揺れる。
漂白された筈の部屋を夕焼けの色が上書きする。その中なら水銀燈とめぐは、違和感なく隣り合っていられる。
「貴女とは違うわね」
「そうかもね。私は人形だもの」
「あら、天使でしょう」
くすくすと陰鬱に笑うめぐを、形だけでも睨みつける。違うと言っても聞かないのだ。この問答は数えきれない程していて、こう言った時のめぐは普段以上に強情なのだと水銀燈には判っている。
この器は血を流さない。
人間に比べれば、確かに強いのだろう。永遠に近い命を望んだのは、他ならぬお父様だ。たとえこれが、至高の少女に向かうための仮初めの強さだとしても。
ああ、でも。急にめぐの声がほころぶように華やいだ。
「水銀燈、……貴女の瞳も、哀しい色ね」
めぐが本当に嬉しそうで、何か皮肉を返す気も起こらずただ沈黙した。
水銀燈の双眸は深い赤だ。それこそ、血のような。他の姉妹を鑑みると異質である。気にしたことが無いと言えば嘘になるが、自分に姉妹達に似た甘ったるい瞳が相応しいとも思えない。むしろそんなの御免だ。だから、別に良い。
狂気のドールにはきっと相応しいのだ。
そして、彼女がこれを哀しい色だというのなら、そういうことにしてもいいと思った。彼女の体は生きものとして弱すぎて、この体は空ろな作り物だとしても。
同じ色を抱えている。
それだけで昂揚するこの気持ちは、一体何なのか。
「いつもの。歌って」
壊すことだけ。それだけしかできない。それ以外の方法を、水銀燈は知らなかった。
愛と憎しみ、それがほとんど同じものだと水銀燈には思えてしまう。
水銀燈は、「お父様」を愛している。心の底から魂の一片まで。
お父様に認められ、褒めてもらうこと。
それが、宿願。生きる意味だと疑ったことなんてない。今もそうだ。
けれど愛を得ようと伸ばす手が、その先にあるものを傷付けるとしたら。
めぐ、あなたは本当に私を望むの?
そんな卑怯な問いを抱えている。確かにある怖れから目を逸らし、責任を全て相手に投げてしまう問いだ。それなのに彼女はきっと、笑顔で肯定するのだろう。水銀燈を怖れもしないで。
指輪は未だ、この手に在る。
守りたいと思った。なのに水銀燈のこの手こそが彼女を搾取し損なうものならば。
心地良い歌声が、水銀燈の耳朶を震わせる。
夕闇の風に運ばれて旋律は溶けてゆく。
お父様の理想に一歩でも近づくこと。
この歌から遠ざかること。
二つは分かちがたく結び付く。それを躊躇なく実行するには、水銀燈にとって少女は重荷でどう扱っていいか分からなくて、多分大切すぎる。
もう少しだけ、迷うことが赦されるなら。
水銀燈はゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏で、赤い光がちかちかとしつこく踊っている。