【マギ】宴のあと
「シンドバッドさまぁ、私ぃ、サインが欲しいんだけどぉ」
「君みたいな読者は大歓迎さ! ほらジャーファル、筆とインク壺を貸してくれ」
じゃらじゃらとコインを縫いつけた胸当ての踊り子が、くねくねと官能的に身よじってシンの太ももをさする。私はそれに鼻の下を伸ばした彼に、唇を引きつらせながら仕事鞄を差し出す。実は宴の空き時間に書類仕事をこなそうと思っていたのだが、それは泡と消えそうだ。
「私ぃ、ここにサインして欲しいなぁ」
踊り子は胸元をぎりぎりまであらわにすると、こぼれんばかりの乳房を突き出した。シンが息を飲む。私は叫び出したいのをこらえるのに必死だ。人が仕事に頭を悩ませている時にこの人は、なんて救いようがないんだ!
「あぁん、くすぐったい……っ!」
「動いちゃだめじゃないか。ほら出来た。落とす時はぜひ俺を呼んでくれよ」
何が落とす時は呼んでくれよだ。こっちは仕事でいっぱいいっぱいなのにと、私は手酌で酒をあおる。踊り子はシンに熱烈な接吻を残して去ってゆく。これで飲まないでやってられるか。
「前から思ってたんですけど、あなたの愛読者層って本っ当に広いですね」
「何だ、妬いてるのか?」
「まさか、自惚れ過ぎですよ。私は呆れてるんです」
難攻不落の迷宮の攻略、一筋縄では行かぬジンとの対決、個性的な仲間との出会いと別れ、その土地土地の美女とのラブストーリー。私は荒唐無稽なそれを思い出し、いちいち苛立つ。いっそ本当に七本のツノが生えて火が吐ければよかった。そうしたらこの憎たらしい場所を一面を焼き尽くして焦土としてやれたろうに。
「サインくらい、お前にもしてやるのに」
シンはこちらにしなだりかかり、私の髪を撫でながら言う。この酔い方からして明日は使いものにならないだろう。なのにまったく、この人はどこまで呑気なんだろうか。
「なら今すぐにでもしてもらいましょうか、ちょうど仕事は山ほど残ってるんですよ」
「お前は本当にかわいくないな」
「可愛くなくて結構」
インク壺の蓋を閉め、脇に置いた鞄にしまい込む。さて次は筆をと手を伸ばすと、シンは酔っぱらいとは思えない素早さでそれを奪いとり、私の頬に流麗なサインを入れ始めた。
「ちょ、やめてくださいよ、くすぐったいです、シン!」
「貴重なサインなんだぞジャーファル。絶対に勝手に落とすなよ、消す時には俺を呼ぶんだ。たっぷり時間をかけてぬぐってやるから……」
鼻先が触れるくらい近くにシンの顔があって、耳たぶにはシンの指先が触れていて、酒くさい息は減点だが正直悪い気はしない。もしかしなくても、私も酔っているのかもしれない。人前でそういうことをするなんてとかの(もはや無礼講も極まれりな宴であるが)、いつもならすぐに出てきそうな文句も浮かばないんだから。私はあわてて彼から筆を奪い取り、金色の瞳を見つめる。シンは首をかしげてこちらを伺っている。妙にじれったくて恥ずかしい。火照った肌が痛いくらいだ。
しかし、そんな甘ったるい時間は長くは続かなかった。そう、彼が粉をかけた女たちが大挙して押し寄せてきたからである。
「いやああん! うらやましい! 私も、ねぇ私も!」
めいめいに着飾った女たちがシンに馬乗りになり、腕を引き、熱烈にくちづけ、愛の言葉をささやく。その圧倒的なテンションに彼はもみくちゃにされ、ついには酒をあおりながら太ももや首筋や背中や、口では言えないところにまでサインを始めた。私はため息をつき、以前喧騒に包まれる辺りを見回す。マスルールに絡むシャルルカンや泣きじゃくってスパルトスに愚痴るヤムライハ、恋人たちの修羅場を眺めるピスティ、妻に引っ張られるドラコーンに裸踊りを始めるヒナホホ。冒険譚に心踊らせる子供たちには絶対に見せたくない光景だ。そして彼らの後ろには、うず高く積まれた酒樽の山がある。この人たち酒代がどこから出ているのか分かっているのだろうか? 国庫だぞ国庫。このままじゃ財政は破綻してしまう!
「シン、今すぐこれを落としてもらいましょうか!」
私は王を睨みつけ、喧騒の満ちる宴会場を抜ける。するとシンは腰を上げ、ひどくあっけなく宴の終わりを告げた。その冷酷な通告に踊り子たちは悲鳴を上げる。奥でわめいているのはシャルルカンだろうか? 彼にもそろそろ酒を控えるように言わなきゃならない。前だってドラコーンに失礼な物言いをしたんだから。
私は酒にふらつく足で、わざとゆっくりと部屋へ向かう。頬が熱い、心臓が痛い、さっきの彼の顔が忘れられない。愛読者の娘たちにするのとは違う、あの甘ったるい顔を見せられて平静でいられるわけがない。
後ろから軽快な足音がする。ジャーファルと呼びかける声に、私は振り返って手を伸ばす。
さっきの約束通り、ちゃんと時間をかけてぬぐってくれたら、今日の無礼講は大目に見ることにしよう。