An echo A stain
ぱさっ、と、あきれるほど軽い音をたててそれは落ちた。
僅かにくたびれた布の柔らかさが、私とソレスタルビーイングとの歴史だった。そしてそれは同時に、「わたし」という存在そのものの歴史でもあった。
(もう着ることもないのね)
未練がましいことを考えたわけじゃない。ただ、それだけのことだった。昔の記憶があいまいなのも、思い出そうとするとひどい虚脱感に襲われるのも、自分が過去や繋がりというものに対して希薄なせいかと思っていたけれど、そうじゃなかった。
なかったのだ、最初から。それを改めて思い知った。
(どうりで軽いわけだわ)
人間として過ごした間、常に私のそばにあった後ろめたさはもう、霧消していた。過去がないのだとわかれば却って楽になった。
ダストに放った上着の赤が視界から消えるのを見送ってつぶやく。
「何もなかったのね」
「必要ないからさ」
振り返ると、私と同じ顔をした"彼"がそこにいた。こうしてきちんと向き合うのは久しぶりだったけれど、別段なんの感慨もない。私を見つめる紅い瞳には上位種の自信と余裕が垣間見え、微笑みが私に無言の圧力をかけている。
きみも同じようにわらうべきだ、と。
「思い出なんて足枷にしかならないよ。人間は学ぶこともしないのに感傷にばかり囚われて、些細なことですぐにつまづく。だからいつまでも僕たちと同じになれない」
理解は、する……けれど同時に不愉快でもあった。心臓を素手で無造作に撫でられるような、ざらりとした不愉快さ。
それに感づいたのか、私を見る"彼"の瞳が瞬間、細くなる。私を品定めでもするように。
「それともまだあの男のことを考えている?」
ツカイモノニ、ナルノカ?
「……忘れたわ」
「それは結構なことだね」
声の大げさな抑揚が皮肉めいていた。嘘吐き、と、聞こえた。
否、私自身の声だったのかもしれない。よくわからない。同じ塩基配列をもつわたしたちはあまりにも似すぎていて、目の前の相手がまるで鏡に映った自分のようだったから。
(気持ちが悪い)
「すぐに慣れるよ」
当然のように答えた"彼"は、間違いなく私の思考と会話をしていた。さっきからの苛立ちが深くなり、発する声につい棘を含んでしまう。
「勝手にひとの思考を覗かないで」
「人間に染まりすぎたんじゃないのかい、アニュー。他人と繋がれないから、人間なんだよ」
ざらり。……ああ、また。
思わず"彼"を睨みつけていた。
なおも私を把握しようとする紅い瞳から少しでも逃れたくて(無駄とわかっていても)目を逸らすと、視界にダストが映り込む。投げ捨てた上着を急に惜しいと思った。
不愉快さの正体を理解する。"彼"が無造作に撫でようとしているのは私のこころだ。私の記憶。
── 愛してるよ、アニュー
あの声を、あの手のぬくもりを、目の前のこの子は知らない。どれだけ思考を繋ぐことができようと、"彼"にはそれはわからない。持ってないから。なにもないから。だからこの子はこどものような、幼い優越感でもって笑っていられるのだ。軽々しくその口の端を引き上げることができるのだ。
繋がれないのが、人間?
つながれたこともないくせに。
制服を脱ごうが、忘れたふりをしようが、記憶は私の肌にはりついたままだった。まるで深い傷口。けれどこれは、私だけの荷物だ。何もなかった私にできたはじめての過去。
あのひとの声は、あのひとがくれた感情は私だけのものだ。あなたに理解できるものか。
今度は"彼"の方が私を睨んだ。表情が歪んでいる。不機嫌で不愉快で、不可解だという顔。
「……忘れたんじゃなかったのかい?」
それでも口元に笑みを浮かべようとしていた。
けれど私は"彼"と繋がっていて、だからわかってしまった。"彼"が繕ったように笑おうとしているのは、自分の不愉快さを私に悟られたくないからだと。
「仕方ないでしょう、経験した記憶を消すことまでは出来ないもの」
「僕には必要ないものをいつまでも捨てられないでいるように見えるけどね」
「作戦に支障が出るようなことはしないわ」
「そう?」
ちらり、とこちらを窺う紅い瞳が余裕を取り戻して笑う。
こっそりと自嘲した。私が与えられる動揺なんて所詮この程度だ。
「少しひとりにして。……リヴァイヴ」
「構わないよ。命令があるまでは休んでおくといい」
言って踵を返した"彼"── リヴァイヴが、去り際に一度、私を振り返る。
「同情はしているよ、アニュー。でも君はイノベイターだ。ちゃんと全部忘れておいで」
わかってる。
私がそう言えないまま"彼"は出てゆき、私は束の間ひとりきりの空間を手に入れる。
すべきことを、考えた。
あのひとと戦うことは避けられないだろう。だから私が言うべき言葉を。告げるべき決別を。
考えて、組み立てて、繰り返す。
何度も、なんども、くりかえす。忘れてしまわないように。彼の前で、澱みなくその台詞を言えるように。
無意味だとわかっていた。
……だって、あいしてると、言われた。
制服を脱ごうが、忘れたふりをしようが、その声は私の肌にはりついたまま存在を主張している。まるで深い、深い傷口。あのひとと過ごした過去と残酷な未来の間で今、ひきつれて痛んでいる。けれどこれは、私だけの荷物だ。何もなかった私にできたはじめての、たったひとつの、ほんとうの、
幸福。
忘れられるはずがない。
(……ライル)
口の端が、重く、引き上がる。
私はたぶん、もうイノベイターとは呼べないのだろう。
この感情を知ってしまったらそんなに簡単にわらうことなんてできない。
作品名:An echo A stain 作家名:にこ