曇り夜空と澄んだ瞳
天気予報では一日中曇りだと言っていた。星が見えないのもそのためだろう。よく見ると、紺色の空が濁りがあるように思えた。その濁りが、まるで今の自分を表しているようだとも、彼女は考えていた。
今まで。弟である矢霧誠二がこの世に生をうけてから今まで、一度も弟以外のことなど考えたこともなかった。
――誠二誠二誠二誠二誠二誠二。あぁ、あなたは何でそんなに…誠二誠二誠二誠二誠二。
彼女の思考はその一つだった。
いつからなのか。彼女は思案する。いつからその思考にこの男が入ってきたのか。いつから一秒でも誠二のことを考えない時間ができたのか。
はじめは、『あの男何様なのかしら。男って…誠二は別。あぁ…』ほんの一瞬。愚痴のようにあの男の嫌な所を思い出し、そのイヤな記憶を 『誠二』で埋め尽くしていた。その繰り返しが続いて、一秒、二秒、三秒…。そしてあの男への愚痴だったのが段々『まだ帰ってこないのか』など夫を待つ妻のようになっていき。気付けば弟の誠二よりも彼女の頭の中を支配していた。『姉さん』という弟の声がいつから『波江さん』『波江』という忌々しいあの男の声になったのか。
――やめてやめて。私の中に踏みいって来ないで。私は誠二を愛しているの、一生、呼吸と同じように、それが当たり前というように弟を愛しているの。どうして貴方は。臨也、貴方は私の中にそんないともたやすく入ってくるの。
心の中の叫びは。心の中でのみ発しられていた叫びは。いつしか現実となり。雇い主である男にぶちまけられることとなった。あの男は、そのとき。いつものような人間全てを愛しているといいながら全てを蔑むような、バカにしたような、軽く中二病のような黒幕気取った感じではなくて。簡単に言ってしまえば、『いつものあいつ』なんかじゃなくて。
とてもとても寂しげな顔で。
それでいて嬉しいけれど、素直に喜べない。そんな切ない表情で。
世界の、終わりのような、顔をして。
「ごめんね」
「波江さんにとって俺は邪魔だね」
「でもね。好きになっちゃった。たとえどんなに波江さんが誠二君のこと好きでも。俺がどんなに人間のこと平等に愛しようとしても。あんたは俺の特別だ」
「あんたが誠二君のこと好きなのと同じでさ。俺、上司として波江さんのそばにいるだけで幸せだった。…つらい、なぁ」
そして、私はそこから逃げ出した。
あれから一週間経ち。冒頭に戻るのだ。
曇った夜空を見上げるのにも飽き、彼女は、矢霧波江は事務所の床に寝ている雇い主を見た。タダでさえ色白で中性的な顔立ちの男は雪よりも蒼白かった。そして、まるでその白と対比しているが如く、床は彼の真っ赤な血で覆われていた。
なくしてから気づく。
呼吸と同じように、愛することが当たり前で。自分が彼に愛を、向けているのにも、気付けなかった。
そして。彼がずっと自分のことを大切に思っていてくれていることにも、当然気付けなかった。
なくしてからじゃ、もう遅い。
床に倒れている折原臨也の瞳は曇り夜空とは対照的に、とてもとても澄んでいた。