爪切り
「ぜってー動くなよ」
そう念をおすような言い草に大げさなと思うが、そう寄こした本人は深爪が嫌いらしい。真田にとって爪など只の人体の一部にすぎなくて、切っても切ってものびてくる厄介なものでしかない。だからその行動を少しでも軽減するために、かつ指から出ている爪の感触が好きではないこともあって深く切り揃えてしまう。まあ動いた拍子に手が滑って下手をしたら肉を抉り兼ねないこともあると思い立ち、伊達に従いここは大人しくすることにした。
一定を保ちながら軽快なリズムを刻んでいく。ぱちり。ぱちり。それを背中越しに聞いている。ときどき混ざる小さな紙の音。それと同時に揺れる背中越しの相手。別に何が面白いという訳ではない。こんなもの生きていれば自然とのびてくるものだ。
ならば何故。何故だろう。
それをしようと身体を屈めた伊達を見たとき、小さく丸まってしまうその背中がとても寂しそうで、ただ悲しくなってしまっただけなのだ。
あ、と耳に届いた小さな声に真田は瞼を開ける。いつの間に目を閉じていたのだろう。膝の上の雑誌のページは進まないままそこにあった。
「幸村、あれ取ってくんね?」
切り揃えた足の爪を触りながら、左手を真田へと差し出す。視線は足に向いたまま。切りっ放しだと皮膚などを擦ってしまう為、伊達はいつも仕上げに鑢をかける。
「こちらですか」
振り向かないままの政宗の左手へとそれを乗せた。少しだけ触れる指。軽く乗った重みを反射的に握りこむ掌。サンキュ、という言葉と共にそれは本来の仕事へと移る。
再び訪れる軽快なリズム。今度は音を変えたものであるが。
「何、読んでんだ」
ふいに問われた言葉にはっとする。遅れて意味を理解した時、出た言葉はとても緩慢だった。
「ああ……頭に入っておりませんでした」
「なんだそれ」
くすくすと笑う振動を背に受けながら目の前の雑誌の内容を漸く目が認識する。『秋の紅葉シーズン!お薦めスポット』ひと際大きく書かれたタイトル。続く細かな記事。その一つ、大きく移された池に沿って色づく木々。
「木々が紅葉(あか)づいたら、ここに行きませんか」
ごそり背中にあった感触が動いたと思うと肩越しに覗いてくる顔にふと目を奪われる。伊達は時々こういった無防備な顔を晒す。その一瞬を見るのが真田の密かな楽しみであったりする。伏せられた瞼を縁取る黒い睫毛が瞬きと共に揺れる。思ったより長いと思ったのはいつだったか。
「いいな。夏は休みが合わなくてどこにも出掛けてなかったもんな」
それに加えオレが体調崩してたことも多かったしな。そう伊達は苦笑する。伊達は夏がそう得意ではない。実家は北の方で土地柄どちらかと言えば寒さに強い。今夏は記録的猛暑(毎年聞いているような気もするが)が続き余りの暑さに身体がやられてしまったようだ。なので休みの日はゆっくり部屋で過ごすことが多かった。
背中あわせだった体勢が、いつの間にか伊達が真田の肩によりかかるといった姿勢になっている。
ここに行きたいと幾つか載っているスポットを指差して伊達は言う。真田はそうですねと相槌を打ちつつ伊達の代わりにページを捲る。暫く機械的に捲っていたら、ふと手を重ねられ指は甲を滑り人差し指を取る。
「なんだこの指。ボロボロじゃねえか」
呆れたように言う伊達の手にはさっきまで己が使っていたケア用品が握られていて。まずは切りっ放しでガタガタな部分を鑢掛けられる。シュッと軽い音が部屋に満ちる。
「ちっとはケアしねえとモテねえぞ」
「そういった事柄は特には考えてはおりませぬ」
「じゃなくてもこの頃はマナー的な風潮にさせられちまってるからな。アンタ、営業職だったろ。尚更じゃねえか」
「そういうものですか」
「さてな。なんとかして流行りに乗せようとしてるものかもしんねーけど、見た目清潔感あるに越したこたァねえだろ」
まあ職によっては逆効果だけどな。そう笑って形を整えた指にオイルを塗って軽く揉みこんでいく。その手の体温がとても気持ちがいい。
「よし、終わり」
そうして見た指はさっきまでの乾燥し少しささくれていた感じとはまた違っていて。つるり、きらきらして思わず感嘆の声をあげる。
「自分の爪じゃないみたいです。流石政宗殿。ありがとうございます」
「これくらい何時でもやってやるぜ?」
「そんな、政宗殿の手を煩わせて申し訳ない。手順も分かりましたし今度からは自分で……」
ばしっ。割と強い力で頭を叩かれる。打たれたところを擦りながら顔を上げると、少し不機嫌になった表情を浮かべた伊達が目に入る。
「ばあか。オレがやりたいって言ってんだよ」
「はぁ……」
その反応に不服だったのか、むにりと両頬を摘ままれる。
「まひゃむねどの、いひゃい」
「わっかんねーかな。オレ以外にやらせんなって言ってんの!」
目を丸くし伊達をみやる。そう言い放ち膨れっ面になった顔が面白くて思わず笑みを零すと、より一層の力で頬を摘ままれる。伊達の握力は半端ないのでその痛みも凄まじい。力任せにあった手を引き離し、ひりひりとした痛みを寄こす頬を擦る。
「わかりました、そのときは是非政宗殿に」
「わかりゃいいんだよ」
そう満足げににっこりと笑う顔がまた可愛らしい。思わず口にでそうになったが、言うとまた不機嫌になるのは分かっていたので慌ててその言葉を飲み込んだ。