黄龍妖魔学園紀 ~いめくらもーどv~
「死体がなければ、そもそも殺人事件は確定しない。せめて、行方不明となっていればともかく、彼らには入出国の記録があるかどうかも怪しい。そこにはいない人間を殺したというのは事件とはならない。だから、殺人罪は成立しない」
淡々と紡がれる言葉に、京也は笑った。
「つまり、ここから死体をえっさえっさと担いで交番まで持ってって、私がやりましたどうぞお縄にしてくださいと白状。そこまでやって初めて、と。つっても、柳生はともかく、九角や水岐なんかについては、まだ時効は発生してないよな」
「……。自らの生存を踏みにじられ、目前で幸せに生きようとするという基本的な権利を脅かされる他人がいて、それでも抵抗が罰せられるべきというのなら」
「非抵抗主義の偉人もいる。それに、正義の抵抗がテロリズム扱いという例は枚挙に暇がない」
「ただ抵抗せずに密室で死ぬだけなら、何の意味もない。非抵抗の姿勢を他人に知らしめて初めて、それは生きる。知らしめるには、殺されるわけには行かない。――僕たちがいるのは、利害の不一致のあるレイヤーだ。どちらが正しいと論評できるレイヤーではない。しがらみを棄てきって、レイヤーそのものを移れない以上、僕たちは正しい」
「たとえ、強盗殺人犯の団体が包丁をもってタップダンスをしていても、遠くから機関銃で虐殺すれば罪になる。そう、ヤク中の快楽殺人犯だって、警察官が後ろから殺す気で撃てば問題になる」
「東京(いま)を守った咎で罰せられたいのか?」
京也は目を細めた。そして、空を仰ぐ。
いや、空ではない。目に映るのは、遺跡の天井。複雑に絡み合う石造りの建築物の様。目を凝らせば、物陰で何かがうごめいているような気がするそれだけだ。
「殺人というのは、社会生活における最大の禁忌。――最大の禁忌を侵せば、相応の罰が与えられるという常識にしがみつきたいだけ。守りたいものより何より、常識(リアル)はそれほどに大事か卑小な」
「――京也」
如月は表情を歪めた。
「ごめん」
「……」
京也は頭を下げた。ただ、如月の方を向いて下げたわけではなかった。
「如月は、帰れといって帰るはずもないよな。――目撃者を減らそうと思ったんだけど」
「むしろ、おまえを追い出したい」
「――。それじゃあ、こんなのヤダって、だだこねてるだけじゃん」
「今度は、選択の余地がある。奴らの相手が、おまえでなくてはいけない理由はない。目の前に強盗がいた時、飛びかかる勇気は否定しない。だが、普通は警察に通報するものだ」
「始めたのは俺。――来てくれて、ありがとう」
京也の言葉に、如月は目を伏せた。
「もう一つ。先に謝っておく。ごめん。あとは余裕がない。できれば、後ろ向いてた方がお勧め」
そう言うと、京也は如月の反応を見ずにサバイバルナイフを取り出した。濡れたように光るそれを脇に挟むと、左手の手袋と手甲を外し床においた。袖を捲り上げたかと思うと、逆手に構え、まっすぐに手首に振り下ろした。
「――京也!」
如月の声に感情が篭る。
ごく当たり前の表情(かお)でカッターの刃で自らを傷つけた。そして「なんだやっぱり人間か」と、そう呟いた。そんな過去の姿が見えたか?
いや。違う。その時の彼と比べても、明らかに鋭さが違った。
その時の彼は「傷をつけてみた」だ。今の刃(やいば)は「つけてみた」などと言う、生易しいものではない。
ほんの一瞬、鮮血が散った。
だが。
「怨嗟の声は聞こえない。聞こえるのは、あまりに矮小な自分のわめき声。こんなはずはない。こんな世界は違う。死にたい、と。だけど」
京也は表情一つゆがめずに言った。
如月は、手を伸ばしかけた。だが、動作が止まる。ただ、目を見開き京也を見た。
ほんの一瞬。鮮やかな朱が太古の闇に散り、独特の鉄の香が立ち上った。
だが床に落ちたのは、ほんのコップ一杯程度もない血。あれだけ鮮やかに、京也がサバイバルナイフを振り下ろしたにも関わらず。
自らに対してのこと、切っ先が鈍ったか?
いや。
最初に噴出した血は、確かに手首が落ちるほどの傷によるものと思えた。
「龍脈は、俺の望みをかなえる。俺が最も望むことに助力する」
まるで、早送りのフィルムを見ているかのようだった。
血が噴出した次の瞬間、傷口の大きさが小さくなる。
「結果を見ろ。俺は生きている。俺は生かされる」
筋組織が、血管が、皮膚が、再生する。腫れあがることもない。かさぶたもできない。
傷口は、あっというまに一筋の跡に姿を変えた。
くい、と。京也は手を握り、手首を曲げた。傷跡が、手首のしわにまぎれる。伸ばした時には、こびりついた血だけが、蛮行の残滓だった。
「何が必要? 忘れるな。俺は生きたい。より良く。より、良く。死にたがる声は幻聴。龍脈の示す自らを受け入れろ。たなぼた以外のモノを欲しがりながら、俺は生きている。生きたい」
ベストからタオルを出し、サバイバルナイフと自分の汚れを拭う。慣れた手つきでナイフをしまい、袖を下ろす。
「……京也」
如月の白い顔は、いつも以上に白く見えた。
京也は手甲を身につけながら微笑んだ。
「行くぞ、如月」
背筋が、すっと伸びる。
分厚く下ろされた前髪の下。深い眼差しが如月を捉えていた。
手甲の具合を確かめてから、京也は扉を開いた。迷いのない仕草だった。歩き方すら変わった。
それは六年前、曇天の下の彼を思わせた。その時、彼が向かったのは、そしてその先で為した偉業は――。
作品名:黄龍妖魔学園紀 ~いめくらもーどv~ 作家名:東明