還りたいけど替われない
音が遠くなる四畳半の畳の上で一人鮮度の高い死体ごっこをしていれば、この間渡した合鍵を使って部屋に入ったのであろう、青葉くんの小作りで綺麗な貝殻のようにツヤのある爪の並んだ爪先が、いつの間にか視界の端に映り込んでいる。
「先輩、僕にして欲しいことありませんか」
恐らくこの後輩は水分とか塩分とか涼みとか、熱中症になりかけている此方の様子からそう言ったのだろうが、僕にとってはより即効性のあるものが欲しかった、から。目蓋が重いので半目のままに、青葉くんへ向けてこう言った。
じゃあ人工呼吸をお一つ。
酸欠の割には、上手に発声出来たと思えたのであった。
開いた集会もあまりの暑さで進行が鈍る最中に誰からともなく言い出して、茹だる気温や旬ものという限定に唆されて海に行くことになったのだと、年嵩のメンバーが所有する車の後部座席でうたた寝しつつ回想する。まあ暑いし、忙しくしていて行ってないし、暑さに耐えかねるし、ひたすらに暑いものだから。ほぼ満場一致で採択されて、揺られて数時間で行ける程度のバカンスに参加出来る者は皆参加という次第となった。定員オーバーも当たり前に出て電車でもって向かう者も居るくらいであるのだから、場所も相まって割増しに賑わしくなるのだろう。
「青葉くん、大丈夫?」
薄い目蓋を晒して俯き気味になっている。ほっそりとした頬がやけに白く見える。かれこれ逃避が始まって数十分経過した辺りから、後輩の声を聴いていない。
「車酔いと、冷房が少し辛いのと」
でも先輩が行くんですから、海、行きたいんです。
忠実は不似合いであって、健気というには少しの誤差がある。可哀想に思うのは趣味がわるくなる。そして後味はまだよく解らない。視覚的なアプローチは出来ないのなら、声と触覚から。それなら空けている距離にとってましなものを施そうと、簡素にそれだけを思った。
細い黒髪を掻き分けてて露にした青葉くんの額に己の額を当て、大丈夫、と再度控えめに尋ねる。…少しだけ間違ったのかもしれない。
鈍った身体を伸ばしながら砂浜の砂に軽く足をとられてふらついた。視線を落とせば、ゴミや小さな貝殻が夜の空の星のように作為なく散らばっている。湿った潮風で髪を戯れのように嬲りながら、空と海の色の違いを実感する。水の間際が涼しそうに見えて、砂を透かして見れる程度の浅い浜に寄った波に人指し指の先だけ浸した。唇に指の腹を当てる。
「涙の味がする」
「随分と塩気のある涙ですね」
斜め後ろから同じ歩調で散策している青葉くんがぼんやりと反応をする。と、頤をぐんと上げて空を仰いだ。辛うじて判別出来る喉仏と頬の白さとまろみがいい勝負をしている。
「本調子じゃないのに大丈夫?」
「心配ですか。嬉しいです。じゃあ、車に戻ってもいいですか」
首を戻し、醒めるようにか頭を一振りした青葉くんがしたり顔をしていたような気がした。青葉くんの薄い背中を見ていれば、段々と僕がその後を着いていってしまうのを、ちゃんと了承していますとでも言うふうに。
再び足をとられながら戻った車のドアを閉めるだけで、海から随分と隔絶された気分になる。先程まで確かに風の匂いや指先で感じた海水の冷たさがあったというのに、窓枠越しに眺めれば写真立てに収まる画質の下がった海の風景を見ているだけのようだった。
顔をシートに寄り掛けている青葉くんに、今度は触れないで尋ねる。
「大丈夫?」
「はい、大分よくなりました。先輩、海行かないんですか?」
海の方向から、いよいよ盛り上がりが最高潮に達しそうな賑わしい声が聴こえているのだけれど。青葉くんの抑揚の少ない声は、その声音が静かな程よく鼓膜に馴染む。
「此処でもいいかなって思い始めたから」
「そうですか、それはよかったです」
目を細める、それ一つさえ形に残らない。それなら、さっきの小さなミスだって大したことにはならないだろうに、ささくれを気にするようにリフレインをする目蓋の裏が恨めしい。
それにしても。今はまだ波の音が呼ぶそれよりも、青葉くんのする、決して強くは此方の裾を掴まない手のそれの方が、緩慢としていて心地よく感じた。
作品名:還りたいけど替われない 作家名:じゃく