鼓動の滴
でもこれも傑が毎日毎日サッカーサッカーとうるさいからだ。などと責任転嫁をしてみるが、やっぱり夢うつつでも認めたようにサッカーが好きなのだ。
忘れるなんて無理かもしれない。
でも、いろいろなトラウマや苦痛の中でサッカーを続けるのは怖かった。
やめてしまえば、それらすべてから逃れられるのだ。
意気地がないと自らを罵りながらも、
その誘惑にどうしても抗えない駆であった。
祐介と公太が見舞いに来てくれた。
いい機会なので、サッカーをやめることを告白してそれとなく兄のことを尋ねた。
途端に二人が口ごもり、両親や奈々と同じ反応をした。
ここへきて、さすがに駆も嫌な感じを覚える。
さらに問い詰めようとしたとき、いつか兄と玄関先で一緒にいた女性が現れた。
白衣姿だ、医者だろうか?
女性の名は、峰 彩花といって臨床心理士の先生だということらしい。
そしてこの後、彼女が口にしたことは理解を超えることだった。
「あなたのお兄さんの傑くんは、亡くなったの」
何を言っているのだろう。
だって兄ちゃんは何度もこの病室にきて、しつこいくらいにサッカーのを・・・・・・
そう言おうとして、気がついた。
兄の姿を一度も見ていないことに。
思えば、兄が現れたのはいつも意識が朦朧としている時だった。
それならあれは全部ただの夢だったのか?
自分が勝手に想像したことだったのだろうか?
――兄ちゃんが、死んだ?
本当に?
唐突に現実が襲いかかった。
その言葉を理解することを拒否したように、なかなか頭の中で理解できなかった。
ただ、身体ががくがくと震えて視界が狭まり、感情が暴走する。
「嘘…だ。嘘だ!」
取り乱して思わず立ち上がろうとする駆に、峰はその頬を打って正気を取り戻させた。 手荒い一撃だったが、それよりも駆の意識を奪ったのは、むしろその台詞の方だった。「そうやって暴れて、お兄さんにもらった命を台無しにするつもり?」
兄ちゃんにもらった?
どういうこと?
けれど、駆が聞き返す前に両親が病室に入ってきた。
そのまま駆は正体もなく泣き続けたが、峰の言葉は鋭い棘のように胸の奥に残っていた。
その後のことは、覚えていない。
たぶん、そのまま眠ってしまったのだろう。
それから心の整理がつくまで、幾日かぼんやりと時をすごしていたようだ。
・・・・・・ようだ、とはその時のことをあまり覚えていないからだ。
気がつくと数日たっていて、両親にはひどく心配をかけてしまった。
けれど、そのあとの駆はまるで生まれ変わったように元気になり、みんなを安心させた。
一日も早く普通の生活に戻る為にリハビリにも励み、その姿は一見、兄の死をもすっかり克服したかに映った。
実際、駆もそう思っていた。
あれから兄の声を聞くこともなくなったし、この分なら退院も間もなくだろう。
手術の経過も良く、これなら体育の授業もできる。
部活動も問題ないらしい。
そう、望めばサッカー部にも戻れるのだ。
けれど、駆の意思は変わらなかった。
サッカーをやめる。
そう決めたのだから。
学校に復帰した日、退部届を出した。
その帰り道、元チームメイトの佑介が復帰を促すように絡んできたが、どうしようもなく苛立って、ついケンカ腰な物言いになってしまったように思う。
佑介が心配してくれているのはわかる。
でも、激しいジレンマに心は乱れた。
自分が本当はどうしたいのか、すでにわからなくなっていた。
逃げ出したいと背中を向ける自分と、
わけのわからない力に背中を押され前に踏み出そうとしている自分が、いつの頃からかせめぎ合っている。
このときも、佑介にボールをぶつけられてそのまま逃げ出す自分の姿を感じつつも、実際は振り向いて佑介に向かい合い、
そして、超然とした瞳で彼を見つめ返していたのだ。
佑介に逃げているわけじゃないと言ったのは、はたして自分だったのか?
なんだかわからなくなる。
自分が自分じゃないような感覚に囚われる。
どのみち、こんな精神状態でサッカーなどできるはずがない。
不意に足元が崩れるほどの虚無感を感じた。
こんな時に相談に乗ってくれる存在を、駆は永遠に失ったのだ。
直接、悩みを打ち明けたりしなくても、ただ見守ってくれているだけで安心するということはあるものだ。
駆にとって、傑はそういう存在だった。
とてつもない喪失感は、日ごと薄れるどころか強くなっていく。
幾日か経って、定期的なカウンセリングを行った。
事故のトラウマは、実際あまり感じていなかったせいか心理テストも問題なかったようだ。
その際、兄の意外な一面を峰先生から聞かされることになった。
カウンセラーの峰は、以前兄から相談を受けていたというのだ。
スーパースターだと思っていた兄の、意外ともいえる悩みを聞いて複雑な思いだった。 彼とて、完璧な人間ではなかったのだ。
自分と同じように悩み、恐れやプレッシャーと戦い、もがき苦しんでいた。
ただ、傑は逃げなかっただけなのだ。
栄光の道を歩いていた兄があまりに眩しくて、駆はその姿をしっかり見ることができなかった。
勇気を出して目を開くべきだった。
そうしたら、その先の道を兄と共に歩いて行けたのかもしれない。
峰は、リハビリの一環として運動を続けろと言った。
結局悩んだ末、辿り着いた答えはサッカーしかないことに気がついて自己嫌悪に近い憂鬱に苛まれる。
尊敬してやまなかった兄を失望させたのに・・・・・・
やめると自分で言ったのに。
それでも結局は、怪我をする前と同じ公園に来てボールを蹴っている。
いっそ滑稽で笑える。
事故の前日、あのケンカの原因である思い出を、ついさっきのことのように思い出した。
兄ちゃんは何が言いたかったのだろう。
ふと振り向くと、そこに信じられない人物がいた。
兄の変装だと信じて疑わなかったグレイマスクが、何事もなかったかのようにそこに立っていたのである。
<つづく>