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春を目指す

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「あ、」

 間の抜けた声にふと我に返れば、自分のソフトクリームが今まさに落下をしている最中だった。だが、帝人はさしたる動揺を見せずにそのさまを視界へ収めようとする。一口も食べていない白いかたまりが、ゆっくり、ゆっくりと反転し、地面へと衝突。歯車の如く絡み合った結末は、浮かべる前に実現され情けない音を立てて、逝った。

「うわー。手ベタベタじゃん」
「うん…」
「うんって」

 何を考えていたのだろう。アスファルトの上で無残な姿となっていく氷も、それが最後まで示したてのひらのエスオーエスも無視して、きっと自分は何かに没頭していたはずだった。

 公園の噴水が飛沫を上げるのを見計らったように、隣の正臣は両足を揃えると目前の浅い段差をぴょい、と飛び降りて見せる。かと思えばそのままこちらには見向きもせず駆け足でどこかへ向かってしまい、帝人は声を掛けるタイミングも失って呆然と小さくなる背中を見据えた。完全には乾いていない白のしずくが、落ちたアイスの上を、周りを、ぼたぼたと汚していく。今更になって不快感が沸き起こるが何をする気にもなれない。
 取り敢えずは残ったコーンを口に運ぶ事にした。既に濡れているため食感にあの独特の軽さは皆無でお世辞にも美味しいとは言えない状態になっていたが、たとえ美味しかったとしても、今の帝人に味覚は無いも同然だった。ただ事務的に、退屈そうに、貪る。そこに味など関係がない。制服が汚れなくて良かったなあ、とか、そんなどうでも良い事ばかり巡らせて無意識に消していた。
 それにしても、手をべたべたにしながら無表情にコーンを食べる男子高生は、見ようによっては相当に妙なものである。現に通りがかった人々はそんな帝人を物珍しそうに、あるいは若干引いた様子で見遣っては、見なかった事にして通り過ぎた。唯一通り過ぎなかった人物は何やらひらひらと手を振りつつ、得体の知れない何かを思い切り帝人の顔面に貼り付ける。
 仄かな痛みと冷たさが思考を遮断した。

「……」
「……」

 無言で濡れたハンカチを剥がすと目前に正臣の顔が映る。しかし、帝人は恨めしげな視線を弛める事なく飴色の瞳へ注ぎ込み続けた。
 いち、にい、さん。
 予想を裏切らず気まずそうに逸らされたのを首を動かして尚も見つめると、相手は観念したのか、

「ごめんなさい」

 勢い良く両手を合わせて見せた。



 何を考えていたのだろう。
 貰ったハンカチで手を拭きながら、立ち上がって眩暈を覚える。思い出せないのにその時の感覚だけが残っていて後味が悪かった。湿ったてのひらが熱いもうひとつと重なる行為すら、遠い世界のできごとのような気がしている。今も。

「正臣」

 最後の一滴が、吸い込まれていく。
 男にしては線の細い背にそっと額を預けると、怯えたような震えが走った後に彼は走り出そうとしていた足に急ブレーキをかけ、肩を強張らせた。繋いだ手に指を絡める事は、どうしても出来ない。ぐらぐらと揺れる脳のせいにして何もかも手放してどこかに行きたい、と、言葉にするのはひどく簡単で反吐が出る。
 だから帝人は何も言わなかったし、正臣も、何も言わなかった。互いに何も言わないまま、密やかな交わりが終わる。そのあとはいつものように、ふざけ合いながらまた笑う。
 繰り返しだ。
 見ないふりをした通行人の彼女のように、一線を跨ぎながら、目を閉じている。

「お前、熱い。熱中症?」
「そうかもね」

 適当に返事を返して、繋いだままの手を緩やかに引いた。しょうがないなあなどとぼやきつつ正臣も応える。そうして、互いに水道へ向かって走った。そこがあたかもオアシスであると、錯覚に似た何かを抱えて闇雲に走った。
頭のすみの方で、そんなことはないのに、と、喚きながら。

 甘ったるい液体だけがそこに取り残されて、二人の背中を睨んでいる。



(100311)
作品名:春を目指す 作家名:佐古