返されなかった杖
途端に顰めた顔で苛立ちを露わにしたグリーン・アイズが剣呑にじろりと睨み上げる。
「なんの用だよ、マルフォイ」
「僕の杖を返せ、ポッター」
「断る」
ばったーん!鼻先で扉を閉めてやった。
これが卒業後初の邂逅。それからというものドラコは三日と空けず訪れた。蛇の執念しつこいぞ、いい加減諦めろ。
それは朝だろうと昼日中だろうと夜だろうと様々にやってくるようだ。ハリーが在住だろうと不在だろうとお構い無しの様子。居れば要求し居なければ帰る、それだけのこと。
不在中の訪問をなんで知っているかって?ちゃんとセコム魔法道具は買い揃えてあるからだよ。街中とは違う田舎は暢気で大らかとはいえまだ混乱を残す世情のこと、却って何があるか判らなくて危ないわと心配するハーマイオニーに、えっへんと胸を張ってみせたものだ。…余計、心配されたけど。
マルフォイ家はウィルトシャーにあると聞く。ハリーが住むゴドリック谷とは遠い。…まあ姿現しなんだかポートキーだかで来ているようだから何処からだろうと距離は関係ないのかもしれないけれど―よく通うよなぁ…的違いに感心してしまった。だからといって返す気は全く起きないのだけれども。
いったい幾度目になるのか。「杖、返せ」
「いやだね」扉を閉めた。
まさに門前払い。無礼極まりないハリーの応対にも関わらずあの鼻持ちならないプライドを圧し折られる事無く、広くもない寛容さを破裂させもせずドラコは繰り返し足を運ぶ。―なんなの。
最高の相性を持つのは一本の杖。他の杖も使えなくも無いがしっくりこないもの。長年使いこなし生涯の共とする杖を奪われたのだから取り返したい心境は判るが―本来なら返すべきなのも重々承知ながらハリーは小首を傾げる。なんなの。
ドラコが来るようになったのは何処をどう流れたものか、自分の言葉が伝わってしまったからなのだろうとハリーは推測している。本気で言ったんじゃなかったんだけれどなぁ…それこそ手慰みに持っていたサンザシの杖でこめかみをぽりっと掻いた。
魔法省内にあるオープン・カフェでロンを含めた同僚数人と昼食を摂っていた時だ。何と無しに魔法界の一大事話になり、ハリーは余り言いたくなかったがやはりその場に居合せなかった者としては訊きたがるのは当然。ロンやホグワーツ卒業生は遠回しに遠慮する話題を折に触れ落とされて、ハリーは困りながらも少しは話してしまう事もある。
多分、それを知っているロンは話題を変えようと話を振ってくれたのだ。あの時の奪った杖はどうしてるのかと。奪った杖?と同僚達の興味心を方向転換させたのは良かったがそこからの説明も求められて、酷く鬱陶しく面倒臭くなった。だから勢いもついて思わず口を付いてしまったのだ。
「返して欲しかったら自分で取りにくればいい」と。
それから暫くしてだ、そんな会話も忘れた頃に滅多に使われない玄関のノッカーが礼儀正しく叩かれたのは。そして鳴らされる度に判っていながら在宅している限りは応対してしまうハリーだった、律儀にも。
サンザシの杖は未だ手の中にある。持ち杖を変えようとか、何かの折りに振ってみようかすら思いもしない。自分の杖は自分にとってこの世に一本だけの最高の杖がある。ハリーはテーブルの上に置いた柊の杖を見詰めた。
マルフォイ家なんだ、今頃は新しーい杖を買ってんじゃねーの?赤毛の親友はそう揶揄った。金に飽かせて莫迦っ高いのをこれみよがしに何本だろうとさー。
ロンがするマルフォイ嫌いに苦笑いを零しながら、そうかもしれないな、ちらりと脳裏に過ぎった。あの後、卒業するまでの期間にも卒業してからも持たれようとしなかった接触は何一つも。だから彼の中でのサンザシの存在は消されたのかもしれないと少々寂しく思ったものだ。
それが一転、この有様。彼の方でも手を拱いていたのかもしれない。にや、っと笑んでしまった。
柊の横にサンザシを並べてみた。木材も姿も長さも違う、見えないけれど芯に使われている素材も勿論違う。何もかも違う二本の杖。ハリーは降ろしていた足を上げ、抱えた両膝に顎を乗せた。
ー どうして僕は返したがらないんだろう ー。
火の粉が暖炉の中で爆ぜた。窓ガラスの向こうは深々と降る雪が夜を白く浮き上がらせている。谷の気候は夏に暑く、冬に厳しい。底冷えする空気が暖かさを奪い取ろうと忍び込む。けれどそれは、くべすぎた薪が作る熱気と交ざり合って程好いくらい。
ことり、と目の前に置かれたマグから美味しそうな香りが広がりハリーは顔を上げた。視線の先では自分用のマグに口を付けたドラコが向かいのソファに腰掛け、先程からの続きとクロスワード雑誌を広げたところだった。
そう、あれから、通い詰めたドラコ・マルフォイはいつの間にか上がりこむようになり、そのまま帰らなくなり、今に至る。
最初の切っ掛けがなんだったのかは忘れた。今夜のように吹雪く雪を身に積もらせ凍え震えるのに熱いお茶を淹れてやりたくなったのかもしれないし、日焼けしない肌を紅くさせて茹る顔に日陰を分けてやりたくなったのかもしれないし、色合い染めた落ち葉が木枯らしに運ばれるのを眺めながら他愛無い話に花を咲かせたからかもしれないし、春先の若葉芽吹く頃に一緒に散歩した後でそのまま一緒に家に入ったからかもしれない。
マグを羽ペンに持ち替えたドラコは長ソファに仰向け寝そべった。軽く眉間に皺を寄せるのは集中する時の癖だと知るようになってしまったハリーは、淹れてくれた紅茶を口に運ぶ。
ドラコが住むことで齎された変化の一つに茶葉の品質が段違いのハイクォリティ化したことがある。葉だけでなく淹れ方にも違いが有るのだろうか。キッチンに入ったことも無いだろう予想を裏切った御子息の紅茶に関する腕前だけは確かで、ハリーにもなかなか淹れさせない頑固な主張。お陰様で紅茶に関してはうっかりその辺の店で飲めなくなってしまった弊害付き。
「何を考え込んでいたんだ?」
カップを置いてから声が掛かったが青灰色の瞳は雑誌から離さず。それでも思い耽るハリーの様子には気付いていたと言外に伝わる。
「んー…杖のこと」言葉になるようなならないような気がして濁した。
「ふぅん…」気の無い返事にさらさらと走るペン先の音。「なぁ、杖、返せよ」
「やだよ」考えていた事柄だけに尖った唇はつっけんどん。
「ふぅん…」またも届く気怠げな声。「それならそれでもいいがな」
え…?と緑色の瞳が瞬いた。なに、それ。本当に諦めちゃった?
杖に未練を無くしたドラコは どうするんだろう。
急に訪れた不安にきゅうっと窄んだ鼓動は縮こまってしまった。
「杖があろうがなかろうが僕は君の傍に居座るだけだからな」
見えたのは雑誌に半分隠された優しい笑み。
ー…ふわぁとハリーにも笑みが広がっていく。
なんだ、出て行かないんだ。
そっかぁ…嬉しくなって抱え直した両足のジーンズをきゅっと握った。
「それなら…そうだな、たまにはレンタルしてやってもいいよ」
それくらいの譲歩はしてやってもいいか。
ハリーの頑なだった何かの中に不安はさっぱり消えて、少しだけサンザシの杖を手離す気持ちが芽生えた真冬のゴドリック谷は今日も暖かい。